2015年11月24日火曜日

Q:アングロサクソン時代にお風呂があった? お風呂の歴史


以前にお風呂について書き、その時に素晴らしい風呂文化はローマ軍の撤退と共に忘れ去られ、12世紀になるまで温かいお風呂はなかったと書きましたが、別件でアングロサクソン時代の事を調べていたらお風呂についての記述を見つけましたので、ここで訂正しておきます。

 

 

温かいお風呂は一般的だった!


アングロサクソン時代とは、ローマ軍撤退後5世紀頃から1066年のノルマン人の征服までの時期を示します。Sharon TurnerHistory of the Anglo-Saxons17991805年出版)の中で、アングロサクソン時代には温かいお風呂を使用していたとし、それもかなり一般的だったと述べています。


West Stow by midnightblueowl (creative commons)
 

温かいお風呂に入らないのは苦行


尼僧は、温かいお風呂は祭事のある時にしか入らなかったそうです。というのは、温かいお風呂や柔らかいベッドに入らないのは、苦行の一つだとされていたからです。また、貧しい人に肉、保護、暖、飼葉、ベッド、お風呂、洋服を与えることは、慈善の為の務めとされていました。


Monkwearmouth-Jarrow修道院 by Xaphire (creative commons)


 

旅人の足を洗う

 

特に、長旅の後にお湯で足を洗う事については、その時代の文献によく述べてあるそうで、客人が見えた時には必ず行っていたそうです。お金持ちにとって、貧しい人の足を洗ってあげる事は、罪滅ぼしの為の苦行の一つだったそうです。

 

 

こぎれいなヴァイキング


793年からヴァイキングがブリテン島に襲来し、865年には侵略が始まります。そしてイングランド北部を中心に定住します。

 

ヴァイキングは野蛮というイメージがありますが、実は毎週土曜日には必ずお風呂に入り、地元の人間よりもかなり清潔だったようです。

 

10世紀のアラブ人Ahmad Ibn Fadlanの記述により、ヴァイキングは髪を金髪に脱色する石鹸を使っていたと信じられています。ヴァイキングはもともと北欧出身ですから、髪の色は薄かったでしょうが、その石鹸に含まれていたライ麦が脱色効果があったようです。髪を脱色する慣習は女性より男性のものであったようです。

 

 

イギリス人女性のハートを掴んだヴァイキング


こぎれいで、長い金髪を櫛で梳いていた長身の男性達は、地元女性のハートを掴みました。現在のイギリス人でも、金髪の人はほぼヴァイキングの血が入っています。

 

この時期のお風呂の普及が、ローマ時代から残されたものなのか、それともキリスト教を通じてその時代のイタリアからもたらされたものなのか、はたまたヴァイキングの影響なのかは定かではありません。

 



2015年10月28日水曜日

Q:家の中のよろい戸はいつできたの? 窓の歴史


この家に引越してきて見つけたのが、道路に面する1階の窓の両脇についているよろい戸でした。窓枠の上にはカーテンがかかっていて、夜もカーテンを閉めていたため、よろい戸を使う事もなく、窓枠自体もカーテンの影に隠れてみえなくなっていました。

 

最近になってよろい戸は外の音を遮断し、断熱の働きもあると知りました。そしてせっかくこの家にもともとある興味深い物なのに、見えないなぁ、と思い、カーテンをとりはずしました。

 

そこで思いました。当時はよろい戸を使っていてカーテンをしていなかったのじゃないかしら? 早速よろい戸について調べてみました。



©モリスの城
 

雨戸の役割だけではない

 

以前にも書きましたが、窓ガラスがまだ高価で普通の人が入手できなかった時にはガラスの代わりに動物の皮、羊皮紙、布、油紙を窓に貼ったり、木製のよろい戸を使っていました。よろい戸は雨風をよけるだけでなく、昆虫や鳥が家の中に入らないようにしたり、直射日光から家具を守ったり、プライバシーを守ったり、そしてもちろん侵入者から守る役割もしていました。

 

 

初期のよろい戸


初期のよろい戸は簡単なもので、木の板を小角材で留めてあり、鉄製の蝶番がついていました。なかには横に開くものだけでなく、上や下に向かって開くものもありました。内側には鉄製の掛け金がついておりしっかりと閉められるようになっていたと思われています。

©モリスの城
 

城郭では防御用の狭間にはもしかしたら厚いカーテンが使われていたかもしせませんが、閉められる様にはなっていませんでした。大きめの窓は木製のよろい戸があったか、羊皮紙もしくは山羊皮紙がはられていました。 

 

14世紀頃から17世紀後半まではダイヤ型に仕切られた窓がはめられるようになりましたが、窓ガラスは高価だったため、ガラスははめられておらず、そのかわりに引き戸や、場合によっては蝶番のついたよろい戸が使われました。

 

 

窓ガラスを守る為のよろい戸


中世のお店には建物の外側によろい戸がついていましたが、普通の家は中についていました。 

 

13世紀のGuildford CastleQueen’s Chamberの様に、窓ガラスが使われるようになった初期の頃には、窓ガラスを守るために家の外によろい戸をつけました。

 

 

引き戸も


木骨造の建物で1600年頃までに一般的だったのは引き戸です。日本の雨戸みたいなものでしょうか。窓枠の上部には溝が掘られ、下部は通常はくぎで窓枠に打ち付けられた別の細長い木材が引き戸を支えていました。そして引き戸がはずれない様に縦桟がはいっていました。引き戸が時代遅れになると、引き戸を外すために桟ははぎとられ、現存している引き戸はほとんどありません。ただし下部の木材だけは残っている場合があり、その時代を偲ばせます。

©モリスの城

一度は消えたがまた復活


16世紀後半から17世紀後半にかけて、窓ガラスの普及と共によろい戸が使われなくなったとされています。

 

1680年代になると、木製のパネルが蝶番でつながった形のよろい戸が使われる様になります。

 

 

収納できるよろい戸


ジョージ朝,特に18世紀から1840年代までは窓のデザインに取り込まれたよろい戸が一般的になります。窓枠の両側によろい戸が収納できるようになっています。


©モリスの城

窓の広さにより、片側が2枚のパネル、反対側が1枚のパネルの場合もありますし、両方共2枚のパネルで成り立っている場合もあります。片側が3枚で反対側は1枚の場合もありました。


©モリスの城

よろい戸があまりに一般的だったので建具屋が大量生産し、とりつけの時に調整したので、中にはシンプルな板が含まれている場合があります。ほとんどのよろい戸は松の様な柔材が使われ、通常緑のペンキで塗られていました。

 

 

おしゃれになったよろい戸


17世紀後半から18世紀初頭にかけては装飾のこった蝶番が使われましたが、その後はシンプルなH型の蝶番にとってかわられました。

 

よろい戸によっては上下に分れているものや、明かり取り用に丸やハート型の穴があいているものもあります。

 

 

しっかりロック


よろい戸には鉄製のバーがついており、外からは簡単に開かない様になっています。このロックにはいろいろなデザインが存在します。この家のものはバーを受ける側にボタンがあり、それを押すとキャッチが中に入りバーを自由に上げ下げできますが、バーをかませてからボタンをはずすとキャッチが出て来てバーが動かなくなります。これは18世紀後半から19世紀初頭に多いデザインのようです。


 
©モリスの城
 

上下に分かれたよろい戸の場合、下のよろい戸と上のよろい戸をつなげるようにななめにバーを渡したり、一度にロックできるシステムもありました。

 

 

屋外のよろい戸再び


18世紀から19世紀初頭になるとまた屋外のよろい戸がぼちぼちと現れますが、アメリカやヨーロッパ程には使われませんでした。

 

18世紀前半の家


18世紀の家

 

消えたよろい戸


ヴィクトリア朝になるとカーテンがトレンディになり、豪邸では家の内部のよろい戸は作られなくなってしまいます。1840年代までは前庭のある小さい家では使われ、通りに面しているテラスハウスでは1860年に入っても使われましたが、それ以降に建てられた建築からは姿を消してしまいました。

 

ちなみにイギリスのよろい戸にはルーバーは使われませんでした。

2015年10月5日月曜日

Q:フレンチドレインって何?


うちは坂の中腹に位置しており、正面が一番低く、庭側が高くなっています。庭も奥に行く程高くなっています。庭側に面しているダイニングルームの下の方の壁には、しみができています。 

 

役所の保存担当員に来てもらった時にそれを指摘すると、庭の高さが床の高さよりも高いのが原因だそうです。土に含まれる水分が煉瓦の壁を通して入って来てしまうのです。

 

ということで、フレンチドレイン(French Drain)を勧められました。フレンチドレイン?フランスでよく使われている建築方法かしら、と調べてみました。

@モリスの城
 

フレンチドレインって何


フレンチドレインとは建物の基礎にそってトレンチを掘り、その底に素焼きの穿孔管を設置し、砂利でトレンチを埋めたものです。

 

フレンチドレインを作る事で雨水等が基礎を濡らさない様にするのです。日本語では暗渠配管というそうです。

 

 確かにうちの庭側は敷石が建物にくっついている状態で、敷石の上の水分も、敷石の下の土の部分の水分も建物に吸収されてしまいます。ここに砂利を入れ、水分を穿孔管に集めて流す事で、建物は余分な湿気にさらされる事がなくなります。

 
French_drain_diagram (creative commons)
 

フレンチはフランスではなかった!


実は、フレンチドレインの「フレンチ」は「フランス」からきているのではなく、Henry Flagg French1813-1885)というアメリカ人の名前からきています。フレンチは農場主であり、弁護士でした。1874年にはマサチューセッツ農科大(現マサチューセッツ大学)の初期学長になります。

 

1857年にヨーロッパを旅行した彼は、病気の原因が瘴気であると学び、自宅の地下室が定期的に浸水しなければ妻は病死しなかったのではないかと考えます。

 

ヨーロッパでは長い間病気は瘴気が原因だと考えられていました。有名な看護婦のナイチンゲールでさえも下水の匂いが病気の原因になると考えていました。



女性や子供を守る

 

その為、家で長い時間過ごす女性や子供を守る為、訪欧から戻るとフレンチ氏は様々な排水法を検証し、1859年に「Farm Drainage」を出版します。

 

この中で後に彼の名前をとって「フレンチドレイン」と呼ばれることになる地下室の排水法について説明しています。フレンチ氏は地下室の排水法について、「内側の壁から2フィート(60cm)の所にトレンチを掘り、2本の2インチ(5cm)の素焼きの土管を入れ、注意深くタン皮を被せる。そして土で埋める。この土管は地下18インチ(48cm)の排水口につなげる」としています。

 

何故皮をなめす用の樹皮が使われるのでしょう。「French Drain for Health」の著者Steve Andras氏によると、タン皮には鉄細菌の繁殖を防ぐ働きがあるそうなのです。残念ながら現在のフレンチドレインにはタン皮は使われていません。

 

現在はフレンチドレインというと、地下室の中の床に作られるものと、建物の外、基礎のまわりに作られる物と両方意味するようです。


土地の水はけを良くするための排水法は古くから存在していました。ローマ時代の学者達はそろって排水法について書いています。

 

 

沼沢地にまつわるイギリスの伝説


イギリス自体、もともと非常に沼沢地の多い国で、それにまつわる伝説も沢山あります。

 

ウェセックス王アルフレッド大王(849 – 899)はアングロサクソン時代の王様で、デーン人の侵略から国を守りました。

Alfred King of England, 13th c (public domain)

おばさんに叱られた王


878年にアルフレッド大王がChippenhamでクリスマスを過ごしているとデーン人の奇襲に遭います。ほとんどが皆殺しにされた中、王様と一握りの人間で命からがら森や沼地に逃げます。Somerset Levelsと呼ばれる沼地をさまよい、やっとたどり着いた貧しい一軒の家。

 

そこのおばさんに匿われますが、おばさんは王様の素性を知らず、暖炉で焼いているパンの見張りを頼みます。でも大王は疲れと国のかかえている問題への心配とで、うっかりパンを焦がしてしまいます。そしてそのおばさんに叱りつけられてしまいます。

 

その後大王はデーン人相手に抵抗を続け、ついにウェセックスの奪還に成功し、イングランド統一の基礎を築きました。

 

 

ロビンフッドのモデル

 

 それから200年弱。フランスのノルマン人である征服王ウィリアム一世(1027 – 1087)が1066年にイングランド王に戴冠すると、大諸侯達の領土や財産を没収し、配下の騎士達に与えました。

 

William_the_Conquerer_Illumination in the Genealogical Chronicle of the English Kings 13th c (public domain)

サクソン人やデーン人諸侯は反乱を起こし、Hereward theWakeを首領に、ケンブリッジの北部に広がるthe Fensと呼ばれる沼沢地の中にある島イーリーに終結して抵抗を続けました。

 

 Herward the Wake with his second wife Alfruda by Henry Courtney Selous, 1870 (public domain)
 

ノルマン人は沼地に阻まれ苦戦していましたが、イーリー大修道院長の裏切りと手引きでノルマン人兵士はイーリーを攻める事ができ、反乱は鎮圧されました。Herewardはロビン・フッドのモデルの一人であると言われています。

 

 

オランダの排水技術


 このようにイギリスの歴史に根付いている沼沢地ですが、17世紀になると抜水され、農地へと変えられます。抜水排水技術が発達し、オランダからも技師が呼ばれて大規模な抜水農地化が勧められます。フレンチ氏が著書の中で述べている様に、19世紀前半にはイギリス各所で多孔土管が農地の排水用に使われています。

 

 

何故フレンチなのか不明


これだけイギリスで排水技術が発達しているにもかかわらず、何故フレンチドレインがフレンチ氏の名前をとられたのかわかりかねたのですが、もしかしたら建物に適用されるようになったのは彼の勧めがあったからかもしれません。フレンチドレインのイギリスでの使用の歴史については資料がなかなかみあたらなかったので、もう少しリサーチが必要です。