2018年4月29日日曜日

Q:いつイギリスの通りは舗装されたの?パート2 道路の歴史

前回舗装の歴史を見てきましたが、今回は19世紀に入ってからのお話をしたいと思います。

 

19世紀に入り、ビクトリア朝になると、道路の状態の悪さと、排泄物や肉屋や魚屋から出た内臓などの廃棄物などの衛生問題に危機感を感じ、ついに道路整備に真剣に取り組むようになりました。



埃のひどいマカダム式

 

J L McAdamは、ターンパイク・トラストに関わっている間に、新しい舗装の仕方を発明しました。マカダム式舗装と言われるものは、石を砕いたものを砂利と混ぜ、ローラーで圧し固める方法です。

 

この方法は1815年から、交通量の少ない道路に使われるようになりました。安価で表面がスムーズ、そして石の敷石よりも馬車の音が響かないので、すぐに広まりました。

 

雨水が浸透するため、水たまりができないことも利点でしたが、排泄物も浸透し、埃がひどかったことから、その埃が病気を引き起こすと考えられ、雨の降らない日には1日に12回水が撒かれました。

 

蒸気ローラーを使えば効果的なこの方法、残念なことにコストの問題で普通のローラーを使っていた為に欠けやすく、外れた小石や破片が馬のひずめに入ってしまうこともありました。

 

ウェストミンスター・ブリッジは毎年14cm程の厚さの砂利を新しく加える必要があったそうです。ですからメンテナンスにはお金がかかりました。


うるさい敷石

 

その後に出てきたのが、花崗岩でできたsettと言われる10cm四方程の四角い敷石です。最初に使われたのは1824年です。コスト、耐久性、そしてザラザラな表面の為滑りにくいという面で、settは優れていました。

 
でも金属製の車輪とやはり金属でできた馬の蹄鉄が石にぶつかる音はあまりにうるさくて、道によっては辻馬車は禁止されました。また、花崗岩が擦り切れて埃になり、これもマカダム同様問題になりました。それだけでなく岩埃が下水に詰まってしまうという問題もありました

©モリスの城
 

板石


同じ時期、1824年に、James Traillがスコットランドのケイスネス(Caithness)で、商業用に板石(flagstone)の切り出しを始めます。それはイギリス全国に送られ、歩道用の敷石として使われるようになります。しかし1920年代になると、コンクリートや合成石の台頭によりほとんどの石切り場は閉鎖されてしまいました。


©モリスの城
 

溶岩石


1834年には、John Henry Cassell が「Lava Stone(溶岩石)」と名付けた方法の特許を取ります。この方法では、石炭を乾留した時に生じるタールの上にマカダムを敷き、その上にタールと砂を混ぜたものを敷いて仕上げます。これはマカダム式舗装の上の層を削った後に敷くことができます。タールを使うことにより撥水性も生まれます。


道に木材?

 

1840年代になると木材が使われるようになります。スウェーデンから輸入された安いパインの無垢材のブロックが道に敷かれます。安価でしたが、柔らかい木材はあっという間にすり減り、腐ってしまいました。



滑りやすいアスファルト

 
1869年に、ロンドンで最初のアスファルトの道が敷かれます。この舗装では砂や砂利を結合するのに、タールではなく天然アスファルトが使われました。アスファルトはタールよりも耐久性があり、気温の変化にも強いのが特徴です。交通音が静かで、馬車もスムーズな乗り心地の為一般には人気でしたが、高価で、また雨が降ると馬が滑りやすいという欠点があったので馬車の持ち主には不評でした。


再び木材

 
そこでもう一度木材が見直されます。ただ道に敷くだけではなく、コンクリートを敷いた上に厚材が敷かれ、その上に木のブロックが敷かれました。そしてアスファルトとピッチを混ぜたものが隙間に入れられました
 
最初はパイン材が使われましたが、そのうちにツガ、マホガニー、オーストラリアから輸入されたユーカリ、ジャラ等の硬材が使われるようになりました。
 
木材の道は埃が立たず、馬に優しく、静かでした。特に病院の周りでは木材が好まれました
 
メイフェア、ベルグラビア、セント・ジョンズ・ウッド等の裕福な地域には高価な硬材が好まれ、貧困地域には軟材が使われました。 
 

1922年に出版されたロンドンの路面地図によると、広範囲にわたって木材が使われていたことがわかります。しかし木材は、金属製の車輪の下ではすり減り、でこぼこになり、また、雨水や排泄物を吸った木材は特に夏にはすごい匂いを発し、衛生的ではありませんでした。


©モリスの城
©モリスの城

一貫性のない道

1909年にジョン・バーソロミューによって制作された路面の地図では、黄色が木材、青が石材、緑がアスファルトで示してあります。

 ちなみに何故これだけ違う路面があるのかというと、ロンドンだけとっても、様々な教区や組織が管理していたからです。例えばサマセット・ハウスやサボイ・ホテルのあるトラファルガースクエアからテンプルを結ぶThe Strand1.2km)だけでも9つの別々の組織が管理していました。

それぞれの組織がそれぞれの考えで動いていたので、1本の道を通っていても、途中から舗装が変わるということはよくありました。例えば、ケンジントンからシティに行こうとすれば、木材、マカダム、アスファルト、settcobble、そして砂利道とあらゆる路面を通ることもありえました。その為路面の変化に馬が驚いて、事故が起こることもしょっちゅうでした。

 

偶然から生まれたターマック


1901年に、土木技師のEdgar Purnell Hooleyがある日製鉄所の近くを通ると、なめらかな路面を見つけました。そこで聞いてみると、タールの樽が落ちて割れてしまい、道路を覆ってしまったそうです。そこでタールが広がらないように、機転を利かせた作業員が鉱滓(鉱石を精錬するときに出るカス)をその上に蒔いたそうです。

 

その表面は耐久性があり、埃が出ず、車輪の跡がつきません。Hooleyは早速それを商業化する研究をし、1902年には特許を取ります。その方法は「tar-macadam(タール・マカダム)」からターマックと名付けられ、各地で使われるようになりました。



馬車から車へ

 
1900年には車を見たことがある人はほとんどいませんでしたが、次の10年の間に、乗合馬車の半分はバスにとって代わられました。1932年には、イギリス最後の乗合馬車の運行が終わりました。そして馬車の為の道から自動車の為の道へと変わっていったのです。

道が燃料に

 
1950年代までに、舗装に使われた木材はほとんど全て掘り起され、近所の人が家に持って帰り燃料として使いました。そして、石油精製過程で得られるアスファルトを使った舗装にとって代わられました。現在ロンドンには木材が使われている道は1箇所しかないようです。


風情のある石畳は過去のものに?

 

さて、風情のある石畳の通りですが、石が緩んででこぼこになった道で人が転び、その賠償額に辟易した地方自治体が、石畳の道をアスファルトの道に敷き直しているそうです。 

 

2010年のテレグラフ紙の記事によると、過去5年間に石畳の道を敷き直したのはイギリス国内66の市にのぼるそうです 。歴史のある街では石畳もその魅力のうち。それが失われてしまうのはなんとも悲しいものです。

 


パッチワーク

 
現在、ほとんどの車道には、アスファルトと砂利などを加熱混合したアスファルトコンクリートか、アスファルト混合物の上に、あらかじめアスファルトで被覆した砕いた石を敷き詰めたて転圧したロールドアスファルトが使われています。
 
しかし、特に現政府になってから、財政支出の縮小により、地方自治体は財政難に落ちいっていることもあって、未だに整備がよくされているとはいえず、常に穴ぼこがあちらこちらにあいています。
 
また、整備されるたびに砂利の種類が変わるのか、様々な色の様々な表面の舗装が見られます。日本の舗装の方が統一されているのではないでしょうか。

©モリスの城



 <参考文献>
 
Clow, Don, “From Macadam to Asphalt: The Paving of the Streets of London in the Victorian Era. Part 1 – From Macadam to Stone Sett” (Greater London Industrial Archaelogy Society)
Otter, Chris, 2008, The Victorian Eye: A Political History of Light and Vision in Britain, 1800-1910 (University of Chicago Press)
Porter, John, 1982, “An Introduction to the Caithness Flagstone Industry”, Boldwin, John R. ed., Caithness A Cultural Crossroads (Scottish Society for Northern Studies, Edina Press Ltd.)
Reid, Carlton, 2015, Roads Were Not Built for Cars: How Cyclists were the First to Push for Good Roads & Became the Pioneers of Motoring (Island Press)
 Renier, Hannah, “Streets of London”, London Historians, August 2012

Wolverhampton History & Heritage Website

The Telegraph website

https://www.ianvisits.co.uk/blog/2015/01/10/the-time-when-londons-streets-were-paved-with-wood/

2018年4月15日日曜日

Q:いつイギリスの通りは舗装されたの?パート1 道路の歴史


前回ブーツの泥落としのことについて書きましたが、その時に疑問に思ったのが、いつイギリスの通りは舗装されたのだろう、ということです。ということで早速調べてみました。


すべての道はローマに通ず

 
イギリスの道路が最初に舗装されたのは、古代ローマ時代でした。ローマ軍がイギリスに駐屯していた時に、最初は軍隊を効果的に送る為、そして後には焼物などの物資の輸送の為に、道が舗装されました。まさに「すべての道はローマに通ず」です。
 
道はほとんど直線で主要な場所を結んでおり、測量技術の高さが伺えます。道は周りの土地よりも高くなっており、両脇には排水溝が掘られ、雨水が真ん中の一番高い部分から排水溝に流れ落ちるようにできていました。一番下の層には大きい石が敷かれ、その上にもう少し小さな石、そして砂利や砂が敷かれました。街中や交通量の多いところにはその上に岩が敷かれましたが、その他の場所では砂利のままでした
 
西暦150年までには1万6千キロ強の道路がローマ軍によって作られました。ローマ軍が撤退後もその道路の大部分は維持され、1360頃に作られたGough Mapによると、イングランドとウェールズの主要都市が道路によって繋がれていたことがわかります。これらの道は、16世紀までには「King’s Highway」と呼ばれるようになりました。現在はそれが高速道路の基礎となり、全国を結んでいます。

Gough Map(左が北)1360 (public domain)

 

なんとなくできた道


ローマ軍撤退後、18世紀までに作られた道路は幾つかの例外を除いて舗装されていません。定住地と定住地を結ぶ踏み固められてできた道は計画的に作られた訳ではなく、ローマ軍の道路のようにまっすぐではありません。

 

王族は道路のメインテナンスには関心がなく、それは地元の教会区の責任下におかれましたが、教会区も資金繰りに困っていた為に、道路にかけるお金が限られていました。年に6日は、無償で道路のメインテナンスをするよう義務付けられていましたが、昔は地元から移動する必要もなく、人々は、自分たちの生活に関係のない道路には興味を持っていませんでした。

 

舗装されていない道には穴が開き、馬にとっても人にとっても危険な状態になります。その上、雨の多いイギリスのこと。特に冬場には水たまりができて、何ヶ月も通れなくなってしまうことも多々ありました。その為主要な道路は徐々に舗装されるようになります。

 

 

川でひろった小石


舗装に使われる小石のことを「cobblestone」と言いますが、その単語が最初に使われたのは14001500年のようです。当時は労働者が川に入って丸くて安定した小石を拾い、それを砂の上に敷き詰めました。裕福な地域では石灰モルタルで固められることもありました。 ただ、雨に濡れると滑りやすいという欠点もありました。


©モリスの城

有料道路誕生!


17世紀になり、産業革命と共に国内貿易が盛んになり、大量の荷物が都市間を行き来するようになると、大型の荷馬車や4輪馬車の往来が激しくなって、道路のダメージが大きくなりました。

 

そのため、1663年に、最初のターンパイク・トラスト(turnpike trust)が作られました。ターンパイクとは有料道路のことで、通行人から料金を取り、それで道路を整備するというものです。これはある地域の地主やメーカー、商人らが嘆願書を持って議会に訴え、それがその地の法令として認められるという形をとりました。

 

1800年代初期までに、千のトラストがイングランドとウェールズを含め29千キロの道を管理するようになりました。

 



©モリスの城

使用料と罰金


あるターンパイクの使用料は、車両のタイプ(四輪大型馬車、荷馬車、荷車)、何頭の馬が引いているか(1頭・2頭・4頭・6頭)、車輪サイズ(9インチ、6インチ、または6インチ以下)、そして家畜の種類によって決まっていたようです。

 

糞尿堆肥やその他の肥料を運ぶ農家、手紙を運ぶ郵便馬車、兵隊、選挙の日に投票に行く人、日曜日に教会に行く人、お葬式や病気の人のお見舞いに行く人は免除されました。

 

嘘をついて払わなかった人には罰金が科され、その人を通した土地の所有者にも同じく罰金が科されました。

 


スピード記録更新!

 

ターンパイク・トラストのお陰で、道路のメインテナンスが行われ、新しい道が作られ、物資の輸送が効果的に行われるようになりました。又人々の移動の時間が短縮されるようになりました。

 

カリフォルニア大学アーバイン校経済学部准教授のDan Bogartの計算によると、1750年から1800年の間に、平均移動スピードが時速2.6マイル(約4.2km)から6.2マイル(10km弱)に、1829年までには8マイル(13km弱)まで増えました。 

 

マンチェスターからロンドンに行くのに、1700年には90時間かかっていたのが、1787年には24時間で行けるようになりました。

 

 

金持ちに都合のいいシステム

 

しかし、基本的にターンパイクは地主や工場主、商人など裕福な人によって運営されていたため、小作農家や下級労働者にしてみれば、金持ちに都合の良いひどいシステムでした。それまでただで通っていた道にお金を払わなければいけなくなり、得をするのは金持ちばかり。 

 

1720年代から、ターンパイク反対の暴動が各地で起こりました。その中でも特に注目に値するのが、ウェールズ中西部で18391843年に起こった「レベッカ暴動(Rebecca riot)」です。



女装暴動!

 

ターンパイクのおかげで、ウェールズの産業は栄えました。それまで水路に頼っていた運輸が、新しくできた道路のおかげで簡易になり、鉄鋼業や石炭産業が盛んになりました。一方で、トラストの間で腐敗が進み、道路使用料も高騰しました。

 

また、その道路の一部しか使わない農夫をも捕まえようと、道路の脇にもゲートが作られました。小規模の農家にとって、作物や家畜を市場に持って行ったり、土壌を保つのに必要なものを運ぶのに払わなければいけない道路使用料は、大きな負担でした。 

 

それだけでなく、地主が強欲になり、小作農家はますます貧窮し、その経済的不満が増し、ターンパイクという象徴物が、都合のいいターゲットになったという感じでしょうか。 

 

ついに爆発した農夫たちは、女性の衣服に身を包み、料金徴収ゲートを襲いました。彼らは自分たちを「レベッカとその娘たち」と呼びました。

 

これは、聖書の創世記24:60にある「彼らはリベカを祝福して彼女に言った、『妹よ、あなたは、ちよろずの人の母となれ。あなたの子孫はその敵の門を打ち取れ』」に由来しています。 

 

1843年までウェールズ中西部各地で何度も起こった暴動により、その地域のトラストは新設された州の道路局にとって代わられ、道路使用料も減額されます。


The Welsh Rioters, Illustrated London News 1843  (public domain)

有料道路撤廃!

このような暴動と、鉄道と運河の発達による道路収入の減少が原因で、1888年の法律によって、道路の責任が地方自治体に移されました。200年に及ぶ有料道路の歴史は幕を閉じ、人々は嬉々として料金徴収ゲートを取り壊しました。


渋滞税の導入

 

現在イギリスには全国で24箇所にしか有料道路はありません。うち21箇所は橋または川の下を通るトンネルで、その維持費の為に使われています。

 

他の2箇所はロンドンとダラム(Durham)のコンジェスチョン・チャージ(congestion charge: 渋滞税)です。これは渋滞緩和を目的に、特定のエリアに入った車両に課される税金で、2003年と2002年にそれぞれ導入されました。 



無料の高速道路

 

有料の高速道路はイギリス全国で23か所しかなく、そのうち18は橋です。

 

ロンドンで学生だった時にベビーシッターをやっていたことがあり、雇用主さんがタクシーを呼んで下さりタクシーで帰った時のこと。北ロンドンから南ロンドンに行くのにタクシーが高速道路を通りました。東京の高速道路に慣れていた私は高速料がいくらかかるのかとヒヤヒヤでしたが、ただと聞いてびっくりしたものです。

 

21世紀に入ってから、環境問題や財政支出の縮小により、有料道路の導入が何度かアジェンダに上がってきています。将来的にまた導入されるかもしれません。

 

さて、19世紀になると、様々な舗装の方法が登場します。それは次回に見てみたいと思います。




<参考文献> 
 
Aldcroft, Derek Howard, 1986, Transport in the Industrial Revolution (Manchester University Press)
Bogart, Dan, The Turnpike Roads of England and Wales (The Cambridge Group for the History of Population and Social Structure, University of Cambridge)
Edwards, James Frederick, 1987, The Transport System of Medieval England and Wales – A Geographical Synthesis, (A PhD thesis, University of Salford)
Taylor, Tim and Reynolds, Matthew, 2005, The Time Team: What Happened When (Random House)

Historic England
National Archives
BBC News website
RAC website

聖書の中の文章はこちらから引用させていただきました。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html