前回冷蔵庫の歴史について書きましたが、19世紀の半ばにはガスが供給されていたといいます。ガスの配給は街灯から始まりました。ではイギリスではガス燈ができるまでどうしていたのでしょうか。
外出禁止令
昔は街灯はありませんでした。1066年にイングランドを征服したノルマン人のウィリアム1世(1027−1087年)は、その2年後に、人々が反逆を企てないように、そして火の消し忘れで火事が出ないように、夜の外出禁止令を発令したと言われています。
英語で外出禁止令は「curfew」といいますが、これはフランス語の「couvre feu(火に蓋をする)」という言葉から来たそうです。暖炉の火を消したりつけたりする手間を省くために、蓋を暖炉の火にかぶせたからです。この蓋は穴が空いているため、火は完全に消えず、朝になったら蓋を外して空気を送り込めばすぐに火が戻ります。これから、この蓋のことも「curfew」と呼ばれるようになりました。
夜9時過ぎても明るい夏には、日が暮れたら、冬には夜8時には鐘が鳴り響き、人々は暖炉に蓋をかぶせ、ろうそくの火を消して、ベッドに入りました。
夜出歩いているとあやしい
夜暗くなってから外出する人は、牧師や助産婦など、緊急時に限られましたから街灯の必要性もなく、夜に外に出かける必要のあるときには、タールや樹脂、獣脂などを使った松明(link)を持ってエスコートしてくれるリンクマン(linkman)を雇いました。灯りを持たずに外にいる人は怪しい理由があると判断されました。
1460年代の教区委員への訴えの記録によると、宿屋が「不審な時間(夜)にやってきた何人かの人は泥棒に違いない」と言っています。
Oliver Cromwell House。 テラコッタでできたcurfewの蓋。 |
今でもなる鐘
外出禁止令は1103年には廃止されますが、その後も外出禁止の鐘が鳴り続けていた場所はたくさんあり、リンカーンでは現在でも鳴らしているそうです。
1383年にはロンドン市長が、特例を除き夜9時以降は許可なく外出してはいけない、としています。
ランタンと夜の犯罪取り締まり
夜間の強盗や殺人を取り締まる為、1417年にはロンドン市長が、11月の頭から2月の頭まで夕方にはランタンを外に吊るすよう定めました。
1614年には、オクスフォードの住民は、月の陰った暗い日には夜6時から9時まで家の外にランタンを吊るすように命じられました。
ケンブリッジでは、家々の負担を減らすために、4件ずつ、代わり番こに冬の間5時から8時までランタンを吊るしました。 1660年からは9月29日から3月25日まで、月が暗い夜には日暮れから夜9時までランタンが灯されました。
ろうそくの種類
ランタンに入れられた獣脂ろうそくの明かりは、あまり明るくありませんでした。蜜蝋を使えたのは教会と富裕層のみで、一般家庭は、羊や牛の脂で作られた臭くて安い獣脂ろうそくを使っていました。貧困層は、台所で使った油にイグサを浸して明かりを灯しました。でもこれはあまり明るくない上に、あっという間に燃え尽きてしまいました。
1690-1700年に建てられた家の外のランタン。昔はろうそくが使われていたと思われる。 |
夜遊びのための街灯
17世紀になると、都市部では治安の為だけでなく、人々が夜遅くまで遊ぶ為に通りを明るくするようになりました。その原因の一つは、闇に対する態度の変化です。
啓蒙主義が広まり、科学が重んじられるようになると、自然に対する畏怖の念が薄れてきます。1583年にはPhilip Stubbesがピューリタンのパンフレットの中で、エールハウス(後のパブ)にいる人たちが一日中、一晩中、金が続く限り飲んで酔っ払っている、と書いています。
1634年には、演劇のパトロンであった法律協会やインなどが豪華なマスカレードを企画、2月の夜に松明の明かりを持ち、シャリオットや馬に乗った豪華な衣装をまとった俳優たちが、ロンドンのホルボーンからセントポール寺院、そしてフリートストリート、チャリングクロスを通ってホワイトホールまで行列し、ホワイトホールで「The Triumph of Peace」という劇を上演しました。
1722年に建てられた建物についている街灯。もともとはガラスで覆われていたと思われる。 |
17世紀半ばにはエキゾチックな飲み物、コーヒーやホットチョコレート、紅茶を出すコーヒーハウスが出来始め、裕福な人やファッショナブルな人達が仕事後から夜遅くまで集まるようになりました。ここではお酒は扱わず、女性禁制でした。お金持ちだけではなく、場所によっては犯罪者やポン引きやならず者達が集まるところもありました。自由に政治を話し合う、王家の権限を脅かす危険な場所だと考えたチャールズ2世は、1675年にコーヒーハウスを禁止しようとしましたが、大反対にあって諦めました。
オイルランプの登場
1680年代までには、ろうそくよりも明るいオイルランプが開発されました。ランプ屋は、こぞって通りで自分の商品を照らしてはスポンサーや顧客に呼びかけ、家々を回っては夜の灯りの代行サービスを売り込みました。維持費はランプの置かれた家庭が負担しなければいけませんでした。支払いができない貧しいエリアは暗く、犯罪も多発しました。
当時の主流はクラウンガラスを作る時にできるブルズアイを使ったものでしたが、1728年にはそのランプは光がまぶしすぎて、「強盗を防止するよりは助長している」という苦情も聞かれました。その為新しいタイプのランプの開発が始まりました。
ブルズアイは光が拡散して眩しい。 |
アザラシ脂が人気に!
1736年には日没から夜明けまで街灯が灯され、その費用は個人でなく税金から負担されることになりました。
様々な油も試され、菜種油よりも安く、明るく、冬の間でも凍ることのないアザラシ脂が使われるようになりました。以前にも書きましたが、当時は厳冬が多かったのです。
街灯と街灯の間はそれまで30ヤード(約27.5m)だったのが25ヤード(約22m)となり、メインの通りだけでなく、小さい通りにも街灯がつけられるようになりました。とは言っても、まだ暗い道の方が多く、灯りのあるところでも他の人の顔を見分けるほど明るくはありませんでした。
1740年代前半にはロンドンだけでおよそ4,440個のオイルランプが配布されました。
夜の活動がますます活発に
街灯のおかげで、18世紀に入ると、都市部では夜の時間が劇的に変わります。散歩や劇場など、人々はますます夜に外に出るようになりました。
上流家庭の子息は1693年から出来始めた会員制のジェントルマンズクラブに通うようになります。ジェントルマンズクラブは元々コーヒーハウスから発展しました。
シェイクスピア(1564−1616)の時代には、お芝居は通常まだ自然の光のある午後に上演されましたが、1779年にはある評論家が「夜のエンターテイメントは夕方6時に始まるものだったのに、今や8時や9時に始まるところもある」と言っています。 お芝居だけでなく、18世紀初頭にはイタリアのオペラ歌手がイギリスでも演奏会を行うようになりました。
産業革命で裕福になった中流家庭も劇場など夜のエンターテイメントに出かけるようになりました。と同時に、都市部の人口増加、失業率の増加、食料品の価格高騰により、通りには物乞いや強盗や売春婦が溢れました。
9時過ぎまで開いている市場や店もありましたが、薄暗い中では顧客は商品が良く見えないために、質が悪いものがつかまされることもよくありました。
次回はこの後、どのようにガス燈が使われるようになったのかを見ていきたいと思います。
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