ガスの発見
ガスが「発見」されたのは、17世紀後半です。天然ガスは、例えば中国では2千年以上前から使われていましたが、石炭からガスを取り出し、「ガス」という概念ができたのはまだ比較的最近のことなのです。
可燃の空気
1691年に化学者John Claytonが化学者Robert Boyleに宛てた手紙の中で初めて、石炭を乾留したら出た「可燃の空気」について書いています。彼はそれを動物の膀胱で出来た袋に溜めては火をつけて、友人を楽しませていたようです。これは石炭を乾留して燃料として使われているコークスを取り出す過程で出るガスで、そのまま空気中に放出されていました。
1739年までには、それがガスと呼ばれるようになり、広く知られるようになりましたが、それを利用する方法は、まだ見つかっていませんでした。
ガス灯=悪魔の仕業?
技術者であり発明家であるウィリアム・マードック(William Murdoch)はこれでガス燈を作ろうと開発に勤しみ、ガスホルダにガスを貯め、パイプで必要な場所へガスを送り込むシステムを作り、1792年にはコーンウォールにある自宅をガスで照らすことに成功しました。地元の人々は、彼が悪魔と関係があるのではないかと考えたそうです。
Murdoch House & St. Rumon's Gardens 出典:wikimedia common |
工場の改良に貢献
蒸気機関を改良し、産業革命の進展に寄与したジェームス・ワット(James Watt)の起こした会社Bolton & Wattで働いていた彼は、父親の後を継いだ息子のジェームス・ワット Jr.に1796年に特許をとることを相談しますが、蒸気機関の海賊版との戦いに苦労していた父親を見て育った彼は、その必要はないと言います。
マードックはその後も開発を続け、1798年にはバーミンガムにあるBolton & Wattの工場にガス燈を設置、初めて大規模なガスシステムの設置に成功します。
1802年に工場の正面をガスで照らして見せた時には、バーミンガム中から人が見にきました。マンチェスターの綿工場には900個のガス燈を設置。火事になる可能性のある蝋燭からガスへの移行は利便さだけでなく安全性の改良にもなり、結果的に工場の保険料を大幅に減額することにもなりました。
この段階ではマードックもBolton & Wattも工場以上の可能性は考えていませんでした。また、特許を取らなかったために、マードックのアシスタントを始め、マードックの発明に感銘を受けた人々が勝手に開発を進めることになりました。
ショウマン登場!
フレデリック・ウィンザー(Frederick Windsor:1763−1830)はドイツ人で、商魂たくましく、PRの才能に長けていました。彼は発明家というわけではありませんが、フランスで1799年にフィリップ・ルボン(Pilippe Lebon)が木ガスを用いたサーモランプというガス燈を発明すると、それを真似して作り、改良していきます。
ドイツよりもイギリスの方が市場があるとにらみ、イギリスに移住。ショウマン精神溢れる彼は、1804年にはライシアム劇場(Lyceum Theatre)で講義を開き、彼の発明したガスレンジについて話し、劇場の正面をガス燈で灯してみせます。
彼の目的はイギリス中にガスを提供すること。そしてガスの街灯が普及したら、レンジやガス器具を売り込もうという魂胆で、先見の明のあるビジョナリーでした。パンフレットを作成し、定期的に講義を開き、新聞や学会の雑誌に広告を出して宣伝します。
貴族や有名人に働きかけ、あっという間に多額の投資を集めました。そして投資家でもある政治家を使って、積極的に政府に働きかけました。
夏の白昼のように澄明
1805年にはマードックのアシタントであったサミュエル・クレッグ(Samuel Clegg)がウィンザーの下でエンジニアとして働き始めました。
1807年にはパル・マル(Pall Mall)の南側を、ウィンザーの自宅前からセント・ジェームス宮殿の前まで木製のパイプでガスを引き、ガス燈を灯しました。「夏の白昼の様に澄明で、月明かりの様に幻惑的で柔らかい」というのが当時の反応です。石炭ガスで灯した明かりはろうそくやオイルの明かりよりも10~12倍も明るかったのです。
ただ、みんながガスの街灯を歓迎したわけではありませんでした。特にオイルランプの業者は面白くありません。ある時誰かがガス燈にダイナマイトを仕掛け、点灯夫が火をつけた途端に爆発したそうです。
「A Peep at the Gas Lights in Pall Mall」Rowlandson, 1809 出典:Wikimedia Commons |
マードックの逆襲
ウィンザーは雄弁でしたが、そこにきな臭さを感じている人も多く、まるで自分がガス燈を発明したかのような彼の誇大広告は、ロンドン訪問中のジェームス・ワットJrの逆鱗に触れました。
1808年にはマードックにガス燈の特許をとらせ、マードックがいかに開発を進めたのか当初からの過程と、それに関わった人々の証言をとり、論文をマードックと共にまとめます。その結果、マードックは王立協会のランフォード・メダル(熱と光に関する優れた研究に与えられる賞)をとりました。
彼の論文は評判になり、マードックが真の発明者だということを証明できました。が、同時にガスの有用性が一般に知れ渡ることになり、ウィンザーの望んでいた、ガスを全国に供給するシステムを推し進めることになりました。
当初は石炭ガスには二酸化硫黄が含まれており、頭痛を訴える人がたくさんいました。石灰水を通して有毒ガスを取り除く方法がいつ誰によって開発されたのかは諸説ありますが、1810年頃までにはガス工場にはそういった装置が取り付けられました。
警察のランプ
1812年にジョージ3世の勅許がおり、ウィンザーの立ち上げた会社を元にGas Light & Coke Company(後のブリティッシュ・ガス)が設立され、イギリスで初めてガスを一般に供給しました。
1821年までには人口5万人を超える街はすべて、1826年までには人口1万人を超える街はほとんどすべてにガス会社ができました。マンチェスターではガス会社ではなく、公安委員会がガスの街灯を導入しました。
通りが明るくなり、安全になったのはいいのですが、見えるがために警察の目も厳しくなり、ガス燈は「警察のランプ」とも呼ばれました。1825年には、ある弁護士が街灯の近くで用を済ませていると、公然わいせつ罪で逮捕されました。
屁っぴり通り
ストランドにあるサボイホテルは王族や国家君主などが宿泊する高級ホテルですが、その脇にあるCarting Laneにはガスの街灯が立っています。この街灯は1890年代にJoseph Webbによって設置された「下水ガス焼却ランプ(sewer gas destructor lamp)」の一つです。
これは下水に溜まったメタンガスを利用しており、それを燃やすことによって糞尿の匂いを中和させます。ただし、下水からのメタンガスだけでは十分でないので、都市ガスの本管からもガスが供給されます。都市ガスがフィラメントを充分に熱したら下水からのガスが引き込まれる仕組みになっています。
この排泄物との関係から、ロンドナーはこの通りの名前をもじって「Farting Lane(屁っぴり通り)」とも呼びます。ちなみに数年前にこの街灯は車両事故で倒され、現在建っているのはそのコピーです。
実は下水ガス焼却ランプはここだけはなくイギリス全国に見られます。特に坂の多いシェフィールドでは、メタンの溜まりやすい場所が多いらしく、82本の下水ガス燈が作られ、25本が現存しています。
Carting Laneにある下水ガス焼却ランプ |
日本では……
ちなみに日本にガス燈が紹介されたのは開国後。1972年に、フランス人アンリ・プレグランの指導下、横浜で日本のガス事業が始まり、馬車道通りに日本で初めてガスの街燈が灯りました。2年後には東京に銀座通りにもガス燈が設置されました。
イギリスのガス灯の今
セントジェームスパークのガス燈。ジョージ4世のイニシャル入り。 |
2009年にエリザベス2世の母、エリザベス皇太后(1900-2002)の彫像が作られた時には、王室の希望により、その近くには電燈ではなくガス燈が設置されました。
バッキンガム宮殿に続くザ・マル(The Mall)沿いの街灯は、宮殿から見て左側が全てガス燈、右側が全て電燈となっています。それがどうしてなのかは、調べてみてもわかりませんでした。やはり王室の希望なのでしょうか。
ジョージ6世とエリザベス皇太后碑 |
ザ・マルのガス燈 |
次回はガス燈がどのように家の中で使われるようになったかについて調べてみたいと思います。
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