コロナウィルスの影響で、イギリスでもマスクがやっと受け入れられるようになりました。そんな中私は、鳥のような形のマスクをネットで見て、かっこいいと思っていました。
でもその後ロックダウン中に、その同じ形をしたマスクをして、長いコートを着てある村を歩き回っていた人が村人たちを恐怖に陥れ、警察沙汰になり、全国紙でとりあげられました。結局、その村の十代の男の子が外出する時に、どうせマスクをするならと軽い気持ちでそのコスチュームを身につけていたらしく、警察から警告を受けて終わったのですが、何故そこまで人々が恐怖を覚えたのでしょう。
ペスト医師のPPE
実はこれはペストが流行った時代に、医師が身につけていた格好だったのです。この形のマスクが最初に作られたのは17世紀のフランスでした。イタリアルネッサンスのパトロンであるメディチ家のかかりつけの医者で、その後フランスのルイ13世の医師になったシャルル・ド・ロルムがこのペスト用の個人防護具(PPE)を開発しました。これはあっという間にヨーロッパ各地に広まりました。
黒い防水の油布や蝋布でできたコートと帽子。ヤギの皮でできたブーツと手袋。その特徴的な革製のマスクには、約15cmの長さのくちばしと丸いガラスの目がついています。そして手にはtickle stick(つかみ棒)と呼ばれるものを持ち、患者からの脇に行かずに衣服をよけたりして診察しました。
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くちばしの理由
何故マスクにくちばしがついているのでしょうか。それは、そこに香りの良いものを入れたからです。よく使われた香りはラベンダー、しょうのう、ミント、クローブでした。
それというのも、昔は瘴気(汚臭)が病気の原因になっていると思われていたからです。ですから医師は良い香りを嗅ぐことで自らの身を守ろうとしたのです。
杖にも香りを
ロンドンのペスト大流行
ペストは14世紀以降何度か流行りましたが、ロンドンで次に大流行したのは1665年でした。この時7〜10万人、当時のロンドンの人口の4人か5人に一人が犠牲になったと言われています。1672年にナサニエル・ホッジス(1629−1688)は、医師としての経験を記録した『Loimologia』の中で次のように述べています。(ちなみに『ロビンソン・クルーソー』で有名なダニエル・デフォーが書いた『ペスト』はこの本が基礎になっています。)
「8月から9月の間には、一週間に三千、四千、五千、ある週には八千もの人が亡くなった。埋葬を待って遺体がそのままになっている家もあり、最期の苦しみを味わっている家もあった。最期の呻きをあげている人のいる部屋もあれば、精神錯乱してわめいている人がいる部屋もあった。親族や友人はその者の死と共に、自分もある日突然死ぬのだといういう恐ろしい可能性に嘆き悲しんだ。赤ん坊は母親の子宮から生まれると同時に墓場へ入った。新婚夫婦は墓場で初夜を迎えた。病に犯された人は酔っ払いのように走っては道端で倒れ息絶え、意識を失い半死の状態のものはそのまま起きる事はなかった。毒を飲み吐きながら横になっているものもいた。市場で食べ物を買っている最中にばったりと死んだものもいた。(中略)9月には一週間に一万二千人以上の人が犠牲になった」
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"Two men discovering a dead woman in the street during the Great Plague of London, 1665", This file comes from Wellcome Images, a website operated by Wellcome Trust, a global charitable foundation based in the United Kingdom. Refer to Wellcome blog post (archive) |
40日の隔離
ペストの患者がでると、他の人に感染しないように患者は40日間家に隔離されました。ちなみに「隔離」を意味する英語「quarantine」はイタリア語の「quaranta giorni(40日間)」が語源だそうです。
ペスト患者の家には赤で十字架が描かれ、「Lord Have Mercy Upon Us(主よ、哀れみたまえ)」と書かれました。患者やその家族が逃げないように、その家の前には見張りが立ち、彼らが食べ物や薬を渡しました。
17世紀のイギリスの官僚サミュエル・ピープスはその日記の中で、そのような家を3件続けて目にした後、瘴気対策として、噛みタバコを口の中で「転がし臭うために」買わざるをえなかった、と書いています。
集団墓地
また、死人を運び出し、集団墓地に埋めるのは夜だと決まっていましたが、ピープスは8月12日の日記に、「あまりに死者が多いので、夜だけでは充分ではなく、遺体を運び出し埋葬するのは日中でもよくなったようだ」と書いています。集団墓地はロンドン中にあったようです。
2013年には、クロスレール建築工事中に、チャーターハウス広場の下に、5万体ほどのペスト患者の遺体が埋葬された集団墓地が見つかりました。
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"Bring Out Your Dead", The Street During the Plague in London 1665, This file comes from Wellcome Images, a website operated by Wellcome Trust, a global charitable foundation based in the United Kingdom. Refer to Wellcome blog post (archive) |
ペストの種類
当時のペストは、ペスト菌保有ノミの吸血により感染する腺ペストと、ペストに感染した人からの飛沫感染による肺ペストが主だったのではないかと考えられています。
船荷と共にペスト菌保有ノミに侵されたネズミが上陸し、宿主のネズミが死ぬとそのノミが人間を吸血し、そこから感染が始まったと。腺ペストの症状は、リンパ節の腫脹、発熱、頭痛、悪寒、倦怠感など。ひどくなると化膿性潰瘍や出血性炎症を形成することもありました。
腺ペストの患者が末期に肺炎をおこし、肺ペストになることもあったようです。経気道感染の場合、潜伏期間は通常2〜3日で、肺ペスト発病後は通常24時間以内に死亡するといわれています。
ちなみに肺ペストの症状は頭痛、嘔吐、高熱、急激な呼吸困難、血痰を伴う肺炎など。その感染から死までの速さから、当時のほとんどの死は肺ペストによるものであったと今では考えられています。
とはいっても、ペスト菌が発見され、病気が解明されたのは19世紀末〜20世紀初頭ですから、17世紀当時にはまだ謎の病気でした。
裕福な人は逃げていく
ペストが流行りだすと、裕福な人々は、我先にと地方へ逃げて行きました。これは今回コロナが流行り出した時に、裕福な人々が地方に逃げ出したのと同じです。地方に別宅や別荘がある人たちだけでなく、今年3月に始まったロックダウン前には、ロンドンにしか家がなくても「一月の家賃は750万円までなら出す」と言って不動産屋に地方の家を探させた人もいたそうです。
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"Runaways fleeing from the Plague", a woodcut from 'A Looking Glasse in City and Country, Printed by H.Gosson in 1630, This file comes from Wellcome Images, a website operated by Wellcome Trust, a global charitable foundation based in the United Kingdom. Refer to Wellcome blog post (archive) |
ペストは神の怒り
17世紀の名誉ある医師たちでさえも、ペストは罪ある人々に対する神の怒りだと考えていました。何人もの医師たちが論文の中で「祈りと信心深い生活」がその治療法だと唱えました。
キリスト教と医学は相互補完的
21世紀の日本人の目からみると奇妙に見えますが、17世紀のイギリスでは、キリスト教と医学は相互補完的であると考えられていました。
Christi Sumichによると、中世には「医者は無神論者なので倫理的に問題がある」と広く思われていたそうです。それというのも、中世の医学は「病気とは自然に発生するものであって神の仕業ではない」と唱えた古代ギリシアの医師ヒポクラテスやその影響を受けたローマ帝国時代の医師ガレノスの教えに基づいていたため、キリスト教の考えに反すると思われていたからです。
薬と祈り、両方必要
医師たちは、自分は敬虔なキリスト教徒だと証明しようとしました。当時のオックスフォード大学の学者ロバート・バートン(1577−1640)は「まずは祈りからはじめ、その後に薬を使うべきである。どちらかではなく、両方である」と説いています。ですから17世紀の医師に書かれた論文の多くには、神の治癒力や聖書への言及がみられるそうです。
ペスト医師たち
自分が死ぬかもしれないという恐怖や、神の怒りならば祈るしか仕方がないという思いからか、首都を逃げ出した医師も多かったと同時に、困った人を助けるというキリスト教的使命感から後に残った医師もいました。彼らはペスト医師と呼ばれました。ペスト医師の中には、高潔な意志を持った医師の他にも、お金になるからという理由で残ったもの、そして怪しげな治療法や薬を提供するニセ医者までいました。このペスト医師たちが上に述べた個人防護服を着ていたのです。
ペストに効く薬?
先に紹介したナサニエル・ホッジスもペスト医師の一人でした。彼も「まずは神に懺悔をし、許しを請い、治療が効くように懇願するよう、患者に伝える」必要があるかもしれないと述べています。彼はロンドン王立医師会の会員で、医師会を通して最新の情報や効くとされる薬のサンプルを受け取っていたようです。
『Loimologia』の中では、ペストに対する「完全な決定的な薬はまだみつかっていない」としながらも、様々な治療法や、内服薬や塗り薬を紹介しています。
一角獣の角は期待はずれ?
面白いところでは、一角獣の角(実はサイかイッカクの角)は大騒ぎの割には期待外れだそうです。本人は業者から分けてもらったけれど、高すぎて金持ちしか買えないし、感染しているのは一般大衆なので、医者としては、例えばクサリヘビの口内錠やクサリヘビの炭酸アンモニア水のように、安くて手に入りやすい薬を使うべきだとしています。
アメリカから送られたガラガラヘビの肉からつくられた口内錠はロンドンで一般的に入手できるものよりも効果があるようだと書いています。また、ヒキガエルの粉も皆に賞賛されているが、鹿角精(鹿の角から作る炭酸アンモニウム水)のほうが効果的だとも言っています。
医者は高くてかかれない
当時はまだ資格のある医師は限られており、その医師に診てもらうには多額のお金がかかりました。ですから、ほとんどの人は民間療法に頼っていました。官僚のサミュエル・ピープスですら、医師の友人が何人もいたにもかかわらず、ほとんどの病気は自分で治せると言っていたようです。
ペスト医師は視覚的「死」
ですから、本当に切羽詰まってからでないとペスト医師に来てもらうことはありませんでした。つまり、ペスト医師が来る時はほとんどが手遅れの状態で、そのためペスト医師は視覚的に「死」を意味したのです。
これを考えると、何故コロナに襲われた21世紀の村人たちが、ペスト医師の格好に戦々恐々したのかわかりますね。