2023年4月11日火曜日

Q:魔女の瓶って何?

2022年に、ヨークシャーにあるカルヴァリー・オールド・ホールの改修工事中、その壁や軒の中から様々なものが発見されました。数も種類も、それまで各地で発見されたものより多く、考古学者を驚かせています。その中には、以前私もとりあげた使い古された靴や、「魔女の瓶(Witch’s bottle)」もありました。年代的には17世紀から19世紀のもので、魔除けとして使われたのではないかと考えられています。

 

魔女の瓶
魔女の瓶 Moyse's Hall Museum

 

カルヴァリー・オールド・ホールの悲劇

 

カルヴァリー・オールド・ホールはもともと14世紀に建てられた建物です。1750年代まで、カルヴァリー家の邸宅でした。実は、17世紀初頭に、ここで悲劇が起きているのです。

 

領主で家主のウォルター・カルヴァリーは、結婚もし、子供も三人いましたが、幸せな人生を送っていませんでした。彼は若い時に地元の女性と恋に落ち、婚約までしたものの、裕福な上流階級の女性との政略結婚を強いられました。彼は酒とギャンブルに溺れ、資産を食いつぶしていきました。一方、妻は、子供たちはウォルターの子ではないと、日々彼を愚弄しており、彼自身命の危険を感じていたようです。

 

そして、1605423日、彼はついに幼い息子たち二人を手にかけてしまいます。妻も刺されましたが、コルセットのおかげで刃が急所をつく事なく、命拾いをしました。彼はまた、止めに入った召使いを階段から突き落とし、馬に飛び乗って、離れた場所で乳母と一緒にいた三人目の子供を殺害しに向かいました。その途中で彼は捕まり、死刑になりました。

 

この事件の内容は、その後1608年に『ヨークシャーの悲劇』という名で舞台化されています。この戯曲はシェイクスピアの名前で出版されていましたが、現在は、トマス・ミドルトン作だと考えられています。

 

Yorkshire_Tragedy_1608_TP (public domain)

 今回見つかった魔除けのアイテムは、その事件からそう時間がたたないうちから置かれているので、事件の影響が強かったのではないかと思われます。亡くなった子供達の祟りか、ウォルターの幽霊かが、何か悪い事を引き起こすと考え、それから身を守ろうとしたのかもしれませんね。

 

 

「魔女の瓶」とは?

 

さて、では「魔女の瓶」とは一体何でしょう?

 

「魔女の瓶」が最初にイギリスの考古資料に現れるのは17世紀前半だそうです。ただし、最初のころは「魔女」と「瓶」という言葉は同じ文中に使われていましたが、「魔女の瓶」という表現が最初に使われたのは1845年だそうです。

 

それは通常陶器製で、中には人間の尿や髪の毛、そして鉄製のピンや釘が入っています。植物の棘や布切れや小さな骨が入っていることもあります。

 

魔女の瓶と中身
魔女の瓶とその中身 Moyse's Hall Museum

 

病気の治療法

 

17世紀後半になると、「魔女の瓶」の使用法が様々な出版物で見られるようになります。星辰医者Joseph Blagraveは、1671年に出版されたAstrological Practice of Physick』の中で、魔力によって苦しんでいる人の治療法の一つを、次のように書いています。

 

「…患者の尿をとり、それを瓶にいれ、釘またはピンか針を3つ、尿の温度を保つために少量の白塩とともに入れる」

 

こうしておくと、魔女が用を足す時に激痛に悩まされ、魔女の生命を危険にさらし、よって呪いを解くことができると考えられていたようです。そして、その痛みゆえに、その人が魔女だと暴露されるそうです。

 

要するに、瓶を膀胱にたとえており、尖った金属が魔女の膀胱を突き刺すと考えているのですね。金属だけでなく、植物の棘や骨、尖った木片も使われていたようです。髪の毛や切った爪、布切れは、尿と同様、その被害者を象徴しているのではないかと思われます。これは日本でいう藁人形に五寸釘を打ち込むのと同じで、物を介して間接的に災いをもたらす方法なのです。

 

A witch at her table being helped by her attendant they are surrounded by various bottles, mortars and jars. Etching by W. Unger (Public Domain) Wellecome Collection

 

魔除け

 

家に隠された魔除けの研究者ブライアン・ホガードは、発見された魔女の瓶の半数ほどが暖炉の近くで見つかっており、その他も入り口の近くや壁の中から発見されていることから、家に侵入してきた悪霊が、その瓶の形や臭いから当人だと思い込み、その人でなく瓶にとり憑くようにしたのではと述べています。以前に書いた使い古した靴と同じですね。それを考えると、この場合は呪いから事前に身を守るため、もしくは悪化しないように使われたのではないかと思います。

 

 

埋められた瓶

 

魔女の瓶は、家に隠されただけでなく、地面にも埋められました。1681年に出版されたJoseph Glanvilによる『Sadducismum Triumphatus』には、次のような話が載っています。

 

あるところに男がおりました。彼の妻は、鳥のようなものに取り憑かれて衰弱していました。そこに旅人の老夫が来て言いました。妻の尿をピン、針、釘と共に瓶にいれ、コルクでしっかりと蓋をしてからそれを火にいれなさい。夫は早速試してみました。暖炉用のシャベルでコルクを押さえるよう言われましたが、ふとした拍子にコルクが飛び、中身が飛び出してしまいました。妻の容態はよくなりませんでした。

 

その旅人は再度その夫婦のもとを訪れ、その結果を知ると、こう言いました。前回と同じように妻の尿をピン、針、釘と共に瓶にいれ、コルクでしっかりと蓋をしたら、今度はそれを地面に埋めなさい。夫が言われた通りにすると、妻は徐々に元気になっていきました。

 

その夫婦のところに、彼らの家から何キロか離れたところに住む女が訪ねてきて、彼らが彼女の夫を殺したと泣きわめきました。夫婦はその女にもその夫にも面識がありません。実はその女の夫は魔術師で、夫婦の妻に呪いをかけたのはその人だったのです。旅人のおかげでその呪いが跳ね返り、その魔術師を殺してしまったわけなのです。

 

この事例では、呪いを受けた者がそれを解くために使っています。これと似たような話は1670年頃に発表されたバラードにもなっていたので、この方法が一般に広く受け入れられていたことがわかります。

 

 

「魔女の瓶」の変遷

 

魔術魔法博物館(Museum of witchcraft & Magic)副館長のピーター・ヒューイットは、「魔女の瓶」は1850年ぐらいから様々な形態に変わっていったと述べています。

 

Boscastle-20040414-MoW by JUweL (Wikimedia Commons)
 

その一つは、悪霊を捕え閉じ込める役割です。オックソフォードのピットリバース博物館にある瓶を1915年に寄付した女性は、「この中には魔女が入っており、もし魔女を出してしまったらいろいろな問題が起こると言われている」と言っていたそうです。魔女を捕まえ閉じ込めるという話は、靴の時に書いた悪魔を捕まえたジョン・ショーンの話に通じるものがあります。

 

魔術魔法博物館の創設者セシル・ウィリアムソン(1909-1999)は、魔術を行う側からリサーチを行いました。1970年代に彼に書かれたキャプションには、魔女の瓶は魔女によって使われ、被害者のものを瓶に入れて、隠したり、埋めたり、川や湖など水のあるところに投げ入れたりすると書いてあります。ですから、少なくとも19世紀か20世紀には、魔女側と被害者側と、どちらの目的でも使われていた可能性があります。

 

瓶も陶器だけでなくガラスも使われるようになり、また、目的も呪いだけでなく、恋愛成就にも使われていたようです。

 

Witch_Bottles_Curse_Protection From Mal Corvus Witchcraft & Folklore artefact private collection owned by Malcolm Lidbury (aka Pink Pasty) Witchcraft Tools (Wikimedia commons)

医学と魔術の境界が曖昧だった時代、「魔女の瓶」は病める悩める人々に希望をもたらしたのでしょう。そして、このように、呪いを解くものから、魔女を閉じ込めたり、様々な魔術に使うものへと、時代と共にその使い方は変化していったようです。

 

 

*ご興味があれば、こちらもどうぞ*

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ーーー

<参考文献>

 

Blagrave, Joseph, 1671, Astrological Practice of Physick (S.G. and B.G for Obad. Blagrav)

Glanvil, Joseph, 1681, Sadducismum Triumphatus (A.L.)

Hewitt, Peter, “Witch Bottles: Finding from the Museum of Witchcraft & Magic”, in Hidden Charms 2: Transactions of the conference 2018 ed. by Billingsley, John, Harte, Jeremy, and Hoggard, Brian (Northern Earth)

Hoggard, Brian, “Evidence of Unseen Forces: Apotropaic Objects on the Threshold of Materiality”, in Hidden Charms: A Conference held at Norwich Castle April 2nd, 2016, ed. by Billingsley, John, Harte, Jeremy, and Hoggard, Brian (Northern Earth)

Kirwan, Peter, "A Yorkshire Tragedy, first edition," Shakespeare Documented, https://doi.org/10.37078/217.

Shakespeare, W, 1608, A Yorkshire Tragedy (R.B.)

Thwaite, Annie, “What is a ‘witch-bottle’? Assembling the textual evidence from early modern England”, National Library of Medicine  Magic Ritual Witch. 2020 Fall; 15(2): 227–251.

 

Landmarktrust ウェブサイト

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年2月14日火曜日

Q:クリスマスプディングは大英帝国の象徴だったの?――クリスマスプディングの歴史

前回プラム・プディングがどのようにクリスマスプディングになったのかをご紹介しましたが、実はプラム・プディングは非常に政治的なのです。

 

 

プラム・プディングを作ったら投獄する?

 

以前にミンスパイの記事でも触れましたが、イギリス内戦中の1647年に、議会がクリスマスを含む祭事を禁止しました。ほとんどの人はその禁止令を無視しましたが、敬虔な清教徒であったカンタベリーの市長は、それを市民に強要しました。クリスマスの日も通常通りに営業すること、そして「プラム・プディングを作ったら、投獄する」と言ったとか言わなかったとか。市長の高圧的な態度に怒った人々は、クリスマスの日に営業していた店を攻撃、そこから状況がどんどん悪化し、暴動へと発展。そして議会派と王党派の戦いが繰り広げられることになりました。似たような暴動は他でも起こり、それは「プラム・プディング暴動」と呼ばれています。

 

 

プラム・プディングはイングランドの象徴

 

このように、国内での反対勢力に対する武器として使われただけでなく、国を象徴するものとしても、プラム・プディングは使われました。

 

前回書いたように、プラム・プディングは、もともとローストビーフと一緒に食べられていました。以前に書いたように、ローストビーフはイギリスの象徴でした。

 

1781年に出版された風刺画『Seven Prints of the Tutelar Saints(守護聖人7枚の版画)』では、それぞれにイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド、フランス、スペイン、イタリアの守護聖人が描かれています。

 

イングランドの聖ジョージは右手にビール、左手には牛肉が刺さった刀を持っています。そして聖ジョージが乗っているのがイギリスを象徴するライオンで、そのライオンの前足の下にはプディングがあります。その下の文章には「素晴らしいイギリスのごちそう、見事なサーロイン、濃厚なプディング、ストロングビールを持った聖人」と書いてあります。レーズンのようなものが入ったその見かけとローストビーフとの関連から、このプディングがプラム・プディングだとわかります。

 

 

プラム・プディングの危機

 

プラム・プディングは国内政治だけでなく、国際政治でも活躍します。

 

1805226日に、ジェームス・ギルレイの風刺画『The Plumb-pudding in Danger – or – State Epicures taking un Petit Souper(プラム・プディングの危機――または――ちょっとした夜食をとる快楽主義的政治家たち)』が販売されました。当時の英国首相ウィリアム・ピットと「フランス人民の皇帝」に就いたばかりのナポレオン・ボナパルト。この風刺画では、プラム・プディングが地球を象徴しています。ナポレオンはヨーロッパ征服を目指していました。ですから、ヨーロッパを切り取ろうとしています。対してイギリスは海軍が強く、世界中に植民地を持っていたので、もっと大きなスライスを切り取ろうとしています。どちらにしても、両国とも、世界征服が最終的な目的だったでしょう。

 

The_Plumb-Pudding_in_Danger;–or–State_Epicures_Taking_un_Petit_Souper_MET_DP809028 (public domain)
 

ナポレオンはイギリス征服の野心があり、1789年から二国は断続的に戦争状態にありましたが、180512日、彼はイギリス国王に和平を提案し、その中で「世界は我々二国が共存するに十分な大きさである」と書いています。この文書は215日にタイムズ紙で公開されたそうです。ギルレイはそれをひねり、この風刺画の中に、「『巨大な地球そのもの、そしてその地上にあるものすべて』は、飽くことをしらない食欲を満たすのには小さすぎる」と書いています。ちなみに「巨大な〜」の部分は、シェイクスピアの『テンペスト』からの引用です。

 

これは私の解釈ですが、プラム・プディングがイギリスを象徴していたとすると、このタイトル『プラム・プディングの危機』は、「イギリスが植民地に目がいっている間に、ナポレオンがイギリスを食べてしまうかもしれないよ」という気持ちが入っていたかもしれません。ピットもナポレオンもイギリスを切り取っていないところを見ると、最終的にどちらがとってもおかしくないからです。

 

事実、イギリス軍の正規軍は、自国だけでなく、世界中の植民地に駐屯していました。そのため、フランスからの脅威に備えるため、ピット首相は国内の義勇軍を充実させようとします。それを揶揄して、1805221日に、議員のウィリアム・ウィンダムがこう言いました。「人さえいれば軍隊ができると思うのは、粉と卵とバターとプラムがあればプラム・プディングができると思うのと同じだ」。つまり、植民地に兵を送っているがために、自国を守れないかもしれないという危機感があったということです。

 

大英帝国植民地 The_British_Empire_(including_Crown_Dependencies,_Crown_Colonies-Overseas_Territories,_Protectorates,_Military_Administrations)(wikimedia commons)
 

 

プラムは鉛の玉

 

また、面白いのは、プラムの綴りです。実は、プラム・プディングは「plum pudding」ではなく「plumb pudding」と書かれることが多く、ここでも「plumb」となっています。

 

調べてみると、1675年の『The Whole Body of Cookery Dissected』でもプラムのことは「plumb」となっており、フルーツ自体そういう綴りが使われていたことがわかります。識学率の低かった昔は、綴りも統一されていなかったでしょうし、方言のように、地方で違う綴りを使っていたこともあるでしょう。18世紀、19世紀には「plum」と「plumb」と両方とも使われています。

 

plumb」を英和辞書で調べてみると「おもり」とでてきますが、昔は「(大砲などの)鉛の玉」という意味もありました。19世紀の作家チャールズ・ラムは、「私はいつもplumb puddingと書く。P-l-u-m-b。その方がもっと丸々として濃厚に聞こえるからだ」と書いています。これも私の解釈ですが、ギルレイは、あえてこの綴りを使うことで、戦争を連想させていたと思われます。

 

 

戦地でもプラム・プディング

 

プラム・プディングは戦地にも送られました。帝国戦争博物館(Imperial War Museum)には、第一次世界大戦中1914年にArmy & Navy Co-operative Societyによって作られたプラム・プディングの缶詰があります。また、第一次世界対戦中には、「Happy Christmas」の言葉と共にプディングに同盟国の旗が刺さったデザインのクリスマスカードが送られました。

 

1914 tin of plum pudding for WW1 © IWM EPH 9389
  

プラム・プディングは大英帝国の象徴

 

プラム・プディングはイギリスのみならず、大英帝国の象徴にもなりました。

 

1924年から1925年にかけて、ロンドンのウェンブリーで大英帝国博覧会が行われました。植民地各国の文化を紹介し、英国帝国の素晴らしさを宣伝したこのイベントでは、2700万人の入場者数を記録しました。

 

Cover_of_the_souvenir_programme;_British_Empire_Exhibition_Wellcome_L0041467 (Wikimedia Commons)
 

勢いを得たオーストラリア、カナダ、ニュージーランドは、その後自分たちの産物をイギリス大衆に売ろうと、大々的なマーケティングキャンペーンを行います。

 

大英帝国博覧会の終了直後の119日のロード・メイヤー・ショウ13世紀から続く毎年恒例のロンドンシティの市長就任パレード)で、オーストラリアは、巨大なクリスマスプディングにカンガルーとエミュと牛のついた山車を出しています。そして「Make your Christmas pudding an Empire one(あなたのクリスマスプディングを帝国のものにしよう)」というバナーのもと、オーストラリアのドライフルーツを売り込みました。

 

同時に、オーストラリアのドライフルーツ局(Australian Dried Fruits Board)がイギリスのDaily Mail紙に第一面全面広告を出し、オーストラリアのレーズン、カラント、サルタナを使った「帝国プラム・プディング」のレシピを紹介しています。

 

 

大英帝国クリスマスプディング

 

1926年に発足した大英帝国通商局Empire Marketing Board)は、そのアイデアを更に発展させ、帝国内の産物のみでできた「帝国クリスマスプディング(Empire Christmas Pudding)」を作り、クリスマス前にジョージ五世に献上しました。

 

後に掲載されたレシピによると、レーズン、カラント、サルタナはオーストラリアか南アフリカ、りんごはイギリスかカナダ、パン粉、スエット、小麦粉はイギリス、ピールは南アフリカ、砂糖とプディングスパイスは英領西インド諸島または英領ギアナ、卵はイギリスかアイルランド自由国(1949年に英国から離脱)、シナモンはインドかセイロン(現スリランカ)、クローヴはジンバブエ、ナツメグは英領西インド諸島、ブランディはオーストラリア、南アフリカ、キプロス、またはパレスチナ、ラムはジャマイカまたは英領ギアナ、ビールはイギリスかアイルランド。

 

The_Empire_Christmas_Pudding Empire Marketing Board. Library and Archives Canada, e010758986  Creative Commons
 

19261220日、それぞれの国の材料が一つ一つ進呈され、仰々しくカメラの前でクリスマスプディングが作られました。実は、どうも、もともとこの日のレシピにはブランデーは含まれていなかったようで、キプロスの行政官が「クリスマスプディングにはブランデーソースが必要なので、それを提供する」と申し出て、14ポンド(約6.3kg)のクリスマスプディングは、ブランデーと共に馬車で国王に届けられました。この記録は帝国内の映画館で上映されました。そのレシピは公開され、ジョージ5世が家族と共にクリスマスプディングを楽しむ様子は「イギリス帝国団結の象徴」だと言われました。これは翌年にも繰り返されました。

 

 

コロナ禍でも使われるプラム・プディングのモチーフ

 

ところで、ギルレイの風刺画のモチーフは未だに政治風刺画家によって使われています。コロナ禍でも、ディビッド・ロウが、コロナになったプラム・プディングを囲んで困惑している世界のリーダーたちを描いたり、エマ・ヘンウッドが、プラム・プディングの形をしたアストラゼネカのワクチンを独り占めするイギリスの首相ボリス・ジョンソンと、悔しがるフランスのマクロン大統領を描いたりしています。

 

 

クリスマスプディングがまた人気に?

 

2021年の売り上げが2017年に比べ、800万個以上から650万個以下へと、30%も落ちていたクリスマスプディング。一時は大英帝国を象徴するまでになったプディングも、現代人の味覚には重く、古臭いものになってきていました。クリスマスプディングのかわりに、イタリアのパネトーネがスーパーの棚のスペースを占めるようになってきていました。

 

ところが、2022年には前年よりも売り上げが約100万個多かったらしいのです。2022年の売り上げの伸びは、オレンジ&唐辛子、チェリー&オレンジなど新しいフレーバーが貢献しているとのことです。生活費の急上昇で大変な状況にあるイギリスですが、もしかしたら、なつかしい味に過去の栄光を見出し、ひとときの安心感を求めたのかもしれませんね。

 

 

 

*ご興味があれば、こちらもどうぞ*

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<参考文献>

 

A Citizen there, to his friend in London, 1648, Canterbury Christmas or, a true relation of the insurrection in Canterbury on Christmas day last, with the great hurt that befell divers persons thereby (Humphrey Harward)

Bamford, Vince, “The Christmas pudding does not always appeal to the younger generation” in British Baker website 30 November 2022

Bamford, Vince, “Christmas pud sales up by a million after years of decline” in British Baker website 12 January 2023

Barnes, Felicity, 2022, Selling Britishness: Commodity Culture, the Dominions, and Empire (McGill-Queen’s University Press)

Bradley, Richard, 1727, The Country Housewife and Lady’s Director (Woodman & Lyon)

Gray, Annie, 2021, At Christmas We Feast: Festive Food Through the Ages (Profile Books)

Linch, Kevin Barry, 2001, “The Recruitment of the British Army 1807-1815”, PhD Thesis, The University of Leeds

Mollard, Johan, 1807, The Art of Cookery Made Easy and Refined (Author)

Parry, Nathaniel, 2022, How Christmas Became Christmas: The Pagan and Christian Origins of the Beloved Holiday (McFarland, Incorporated, Publishers)

Rabisha, William, 1675, The Whole Body of Cookery Dissected (Francis Smith)

Shanahan, Madeline, 2019, Christmas Food and Feasting (Rowman & Littlefield Publishers)

The Cyprus Agricultural Journal: A Quarterly Review of the Agriculture, Forestry and Trade of Cyprus Volumes 20-22, 1925 (Cyprus Agricultural Journal office)

Tomlinson, Sally, 2019, Education to Race from Empire to Brexit (Policy Press)

Windham, William, Amyot, Thomas, 1812, Speeches in Parliament, of the Right Honourable William Windham (Longman, Wurst, Rees, Orme, and Brown, Paternoster-Row; and James Ridgway)

 

 

British Museum website

Murray Pioneer and Australian River Record (Renmark, SA:1913-1942), Friday 11 Dec 1925, Page 7

Oxford English Dictionary

Plymouth University website

Theprintshopwindow.wordpress.com

 

The Lord Mayors Show Aka The Lord Mayor Show (1925) https://www.youtube.com/watch?v=cf8DmwLYzmg (0:31-0:37)

 

 

2023年1月9日月曜日

Q:プラム・プディングにはプラムは入ってないの?――クリスマスプディングの歴史

プラム・プディングにはプラムが入ってなかった!

 

イギリスでクリスマスに食べる伝統的デザートはクリスマスプディングが一般的ですが、かなり濃厚なので、そのかわりにプラム・プディングを作ってみようと思いました。プラム・プディングは食の歴史の本でよく言及されており、プラムは好きなので、ちょっと趣を変えて作ってみようと思ったのですが……。調べてみたら、プラム・プディングとクリスマスプディングとは全く同じものでした。そして、プラムは使われていなかったのです。

 

そこでクリスマスプディングの歴史について調べてみました。


 

クリスマスプディングのドライフルーツ

 

クリスマスプディングとは、ドライフルーツとパン粉とスエットとスパイスとブランデーを混ぜて蒸したものです。デリア・スミスの「伝統的クリスマスプディング」のレシピでは、ドライフルーツにレーズン、サルタナ、カラントを使っています。

 

A family sit around a table eating their Christmas meal and greet the arrival of the plum pudding which is being carried in on a large tray by Cecil Ldin (Public domain)

 では、どうしてプラムが入っていないのに「プラム・プディング」と呼ばれるのでしょう?どうも、昔は「プラム」とはドライフルーツ一般を指していたようなのです。

 

イチジク、デーツ、プルーン、レーズンなどのドライフルーツは、中世にはイギリスで食べられていたことがわかっています。

 

 

ドライフルーツはどこから?

 

手元にあるカラント、サルタナ、レーズンを調べてみると、原産国はギリシャ、トルコ、南アフリカ、アメリカなど。イギリス原産のものはありません。

 


中世でも、地中海近辺から輸入したものもあったようですが、それでは庶民は手がでなかったでしょう。実は、どうも国内でとれていたようなのです。

 

イーリーには、大聖堂の近くに、1400年ぐらいに建てられた家があり、そこにはブドウの絵が描かれた壁画があります。現在は一本も残っていませんが、中世、大聖堂がまだ修道院だった時には、その庭にブドウがたくさん生えていたようです。ブドウはローマ時代からイギリスでとれ、プラムと共に中世には修道院の庭でも栽培されていました。それを考えると、ドライフルーツは意外に身近なものだったのかもしれません。

 

 

 

どうしてドライフルーツがプラムなの?

 

ではどうしてドライフルーツの総称が「プラム」だったのでしょう?実は、「plum」には現在の「plump」と同じ、「丸々とした」「ふっくらした」という意味がありました。ドライフルーツは水分につけて戻すと、ぷくっとふっくらします。きっとそのために、「プラム」と言われたのではないでしょうか。

 

 

フィギープディングにはフィグは入ってない?

 

ちなみに、クリスマスプディングはフィギープディング(figgy pudding)とも言われるのですが、いちじく(fig)も入っていません。「figgy」というのは、「いちじくのような」という意味ですが、「甘い」という意味で使われていたのです。つまり、「いちじくのように甘いプディング」という意味でした。

 

 

クリスマスプディングの元祖

 

さて、クリスマスプディングは、プラム・ポティージ(plum pottage)というものが元になっているといわれます。

 

pottage」を英和辞典で調べると「ポタージュ」とでてきます。事実、中世フランス語の「ポタージュ(potage)」が語源です。「ポタージュ」というとオシャレな感じがしますが、ポティージというのは、まだ直火で料理をしていた時に、火に鍋をかけ、その中で野菜や穀物、そしてある程度裕福であれば肉を、とろとろと煮た素朴なシチューです。もちろん、レンジになってからも作られていましたが、今は特別な「田舎料理」でもない限り、目にすることも耳にすることもありません。

 

Old Cottage Fireplace and pets c1860s (public domain)

食歴史家のアン・ウィルソンは、プラム・ポティージの歴史は15世紀のレシピに遡るとしています。「Stewet Beef to Potage」というレシピでは、一口大の牛肉を水、ワイン、玉ねぎ、ハーブ、クローヴ、シナモン、メース、レーズン、カラント、パン(とろみづけ)、紅木紫檀(食紅)で煮込んだもののようです。当時はクリスマスとは関係なく食べていたようです。

 

以前ミンスパイの記事でも書いたように、肉を保存する知恵として、肉とドライフルーツとスパイスを混ぜるレシピを、十字軍が中東から持ち帰ってきました。ですから、それ自体はイギリスでもすでに確立した組み合わせでした。

 

 

プラム・ポティージがクリスマス料理に

 

このポティージを最初にクリスマス料理と呼んだのは、1673年に出版された本『The Whole Body of Cookery Dissected』の中でのようです。この頃には、これにアルコール(クラレットまたはサック)が加えられ、事前に作られて陶器のポットの中で保存されていたようです。

 

プラム・ポティージはプラム・ポリッジともよばれ、クリスマスに食べられるようになると、クリスマス・ポティージ(またはポリッジ)とも呼ばれました。

 

1728年の「プラム・ポティージまたはクリスマス・ポティージ」のレシピによると、牛足を水で柔らかくなるまで煮、そこに赤ワインとストロングビール、クローヴ、メース、ナツメグ、リンゴ、カラント、レーズン、プルーンを入れ、牛足を最後に取り除いて食べます。

 

1695年に発表されたウィリアム・ウィンスタンリーの詩、『Now Thrice Welcome Christmas』には、「ミンスパイやプラム・ポリッジ;美味しいエールに強いビール」という一節があり、この頃からクリスマスに食べられていたことがわかります。

 

18世紀のスイス人トラベルライター、セザール・ド・ソシュールは1726年に、「国王から職人にいたるまで、スープを飲んでクリスマスパイを食べる。このスープはクリスマスポリッジと呼ばれ、外国人の口には合わない」と書いています。

 

このクリスマス料理も、19世紀前半には徐々にみられなくなってきます。

 

 

プラム・プディングの登場

 

さて、以前書いたように、プディングを作るのに布が使われ始めたのが17世紀初頭です。まもなく、1630年までには、プラム・プディングの記載が見られるようになりました。

 

1714年のレシピによると、プラム・プディング(Plumb pudding)を作るには、細かく刻んだスエット(牛脂や羊脂)にレーズン、粉、砂糖、卵、塩を合わせ、プディング用の布に包み、四時間以上煮る、とあります。

 

A woman takes a large plum pudding in a cloth bag off a hot stove in a kitchen by R Seymour 1830-1839 (public domain)

1675年のクリスマスには、大英海軍の従軍牧師、ヘンリー・ティアンジが、船長とともに牛肉、プラム・プディング(Plumb pudding)、ミンスパイを食べたと記録していますが、先に書いたように、この頃はまだプラム・プディングよりもプラム・ポティージのほうがクリスマスには一般的でした。

 

 

ご馳走プディング

 

1750年にウィリアム・エリスによって書かれた『The Country Housewife’s Family Companion』によると、特に大変な小麦の収穫時期2週間は、カレントとレーズンとスエット入りの プラム・プディング(Plumb pudding)を牛肉と共に、農夫たちに食事として出しています。これから、プラム・プディングはクリスマスだけでなく、ご馳走として特別な日に出されたのだと想像できます。

 

ちなみに、プラム・プディングはデザートとしてではなく、現在のヨークシャープディングのように、ローストビーフと一緒に食べられていました。食後のデザートになったのは18世紀末ぐらいからです。

 

 

クリスマスプディングはディケンズへのオマージュ?

 

1845年のエリザ・アクトンのレシピによると、「クリスマスプディング」は、パン粉、粉、レーズン、カラント、リンゴ、スエット、砂糖、オレンジピール、ナツメグ、メース、塩、卵、ブランデーを混ぜ、三時間半煮る、とあります。18世紀のレシピに比べると、かなり濃厚になっていることがわかります。

 

この頃までには、ディケンズの『クリスマスキャロル』にみられるように、ブランデーを振りかけて火をつけるという習慣が広まりました。これは特別感を与え、通常に食べるプラム・プディングとは一線を画すようになりました。

 

Christmas_pudding_(Heston_from_Waitrose)_flaming by Ed g2s (Creative Commons)

実は、プラム・プディングを最初に「クリスマスプディング」と呼んだのは、エリザ・アクトンだそうです。ディケンズの『クリスマスキャロル』が出版されたのが1843年。そして、彼女のレシピが出版されたのがその2年後。どうも、エリザ・アクトンはディケンズのファンで、そのレシピ本を彼に贈呈したとか。そして、食歴史家のペン・ヴォルガーは、彼女はディケンズの作品へのオマージュとして、このプディングを「クリスマスプディング」と名付けたのではないかと推測しています。

 

こうして、19世紀末までにはプラム・プティングはクリスマス限定の食べ物になり、「クリスマスプディング」となったのです。

 

 

<参考文献>

 

 

Acton, Eliza, 1865, Modern Cookery for Private Families (Longman, Green, Longman, Roberts, and Green)

Bradley, Richard, 1728, The Country Housewife and Lady’s Director in the Management of a House, and the Delights and Profits of a Farm (The Project Gutenberg)

Davidson, Alan, 2014, The Oxford Companion to Food (Oxford University Press)

Ellis, William, 1750, The Country Housewife’s Family Companion (J.Hodges)

Given-Wilson, Chris, 1996, An Illustrated History of Late Medieval England (Manchester University Press)

Gray, Annie, 2021, At Christmas We Feast: Festive Food Through the Ages (Profile Books)

Kettilby, Mary, 1714, A Collection of Above Three Hundred Receipts in Cookery, Physick, and Surgery (Richard Wilkin)

McLean, Teresa, 2014, Medieval English Gardens (Dover Publications)

Shanahan, Madeline, 2019, Christmas Food and Feasting (Rowman & Littlefield Publishers)

Volger, Pen, 2020, Scoff: A History of Food and Class in Britain (Atlantic Books)

 

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