さて、前回イギリスでどのように電気が使われ始めたかをご紹介しましたが、今回はその続きを書いてみたいと思います。
前回お話ししたように、中央発電所から電気を消費者に供給するシステムは、イギリスでは1881年からゴダルミンやブライトンなどの都市ですでに行われていました。
エジソンの集中配電所
エジソンは1882年にアメリカからエジソン製の大掛かりな発電機を輸入し、ロンドンのホルボーン陸橋(Holborn Viaduct)とその周辺を電気で照らし、4月に正式に集中配電所を始めました。ニューヨークのパールストリートに電気を配給する半年前のことです。
これはただこの新しいテクノロジーの実用性を証明するものだけでなく、エジソンの会社の宣伝を狙ったものでした。そのため、自治体に請求する街灯の照明費もガスと同等に抑え、利益なしで操業しました。
前回述べたように、1883年にエジソンの会社はスワンの会社と合併し、ホルボーン陸橋の配電所もエジソン&スワン・ユナイテッド・エレクトリック・ライト・カンパニーが運営することになりましたが、集中配電システムは赤字事業だとして、1886年には停止しました。
ホルボーン陸橋にあったEdison Electric Light Station, From an article by Jack Harris, New Scientist (1982). The photo was taken between 1882-1886, (Wikimedia Commons) |
19世紀のモダンアートギャラリー
さて、1877年にロンドンのニュー・ボンド・ストリート(New Bond Street)にグローヴナー・ギャラリー(Grosvenor Gallery)がオープンしました。オーナーのクーツ・リンジー(Coutts Lindsay)准男爵夫婦は若手の画家の作品を収集し、サポートしていました。
ダンテ・ガブリエル・ロゼッティやエドワード・バーン=ジョーンズを含むラファエル前派もお気に入りでした。当時正統派美術と呼ばれた作品を展示していたロイヤル・アカデミーがラファエル前派の展示を拒否したのに伴い、准男爵は彼らの作品を展示できるギャラリーを作ることにしたのです。
ルネッサンス期のフィレンツェでアーティスト達のパトロンになり、ルネッサンス文化を育てたメディチ家の人々に自分たちをなぞらえ、豪華なギャラリーを作り、当時は無名の画家達を紹介しました。
1881年にパリ電気博で最新のテクノロジーを見てきた准男爵のいとこのクローフォード伯爵は、そのギャラリーを電気で照らすことを提案しました。1883年にはギャラリーの建物の裏に発電機を置き、アーク灯でフロアを照らしました。
グローヴナー・ギャラリー, The Graphic (19 May 1877). P. 480 (Wikimedia commons) |
グローヴナー・ギャラリー, The Illustrated London News 1877 (Wikimedia Commons) |
電気の明るさは大人気
ギャラリー自体も大盛況でしたが、この明かりに人々は驚嘆しました。近くのお店のオーナーは、こぞって准男爵に電気を使わせて欲しいと頼みました。当時、道路を掘りかえさなければ電気を供給するのは自由でしたので、准男爵は電気の供給も始めました。
顧客はどんどん増え、今までの発電機では間に合わなくなったので、1885年にはギャラリーの下に蒸気発電所を作り、トンネルで裏の道の反対側に建てたボイラールームとつなげました。
電線を建物の屋根の上の鉄柱を伝わせて顧客に電気を届けましたが、電話の普及とともに、蜘蛛の巣状に広がった電線と電話線が屋根の上でからまり、うまく送電できないなど、問題が発生しました。
また、ギャラリーのあったところは日本でいう銀座で、高級ショッピング街ですから、蒸気発電機の振動も苦情の対象になりました。
若く才能のあるエンジニア
1886年には、弱冠22歳のセバスチャン・ジアニ・デ・フェランティ(Sebastian Ziani de Ferranti)をチーフ・エンジニアに迎えます。彼は自分のデザインした発電機を設置し、すべてをアップグレードしました。
2年のうちに顧客は爆発的に増え、東はトラファルガー・スクエアを経由してホルボーン(Holborn)を超えたところまで、北はリージェント・パークの近くまで屋根伝いに電気を供給しました。バッキンガム宮殿の近くにある、当時ウェールズ公の住居であったマールボロ・ハウス(Marlborough House)にも、ギャラリーから電気がひかれました。
1887年には准男爵、伯爵、その他の資本金でLondon Electric Supply Corporation Limitedという会社を立ち上げ、1990年にはフェランティの提案で、テムズ川の南、グリニッジの近くのデットフォード(Deptford)に世界最大級の発電配電所を作りました。
世界最大級の発電配電所の誤算
当時は石炭で蒸気機関を動かしていたので、大量の石炭を簡単に船で運び込めるように、敷地がテムズ川沿いにあることは重要なことでした。しかも、中央から離れていることで土地代は安く、騒音や振動の問題も心配することがありませんでした。これにより、多くの顧客に、より安価な電気を供給できるはずでした。
「はず」だと言ったのは、予定通りにことが運ばなかったからです。London Electric Supply Corporation Limitedの独占を恐れた商務庁は、供給地域を絞り、もともとグローブナー・ギャラリーが供給していた顧客も一部、競合相手に渡してしまったのです。
その上、発電所の事故や変電所の火事でしばらく電気の供給が出来なくなり、その間に顧客が他の会社に乗り換えてしまったこともありました。度重なる不幸による損失に重役達はしびれを切らし、1892年にはフェランティは会社を去り、配電事業から手を引きますが、会社自体はその後も電気を供給し続けました。
電気よりオイル
1886年からはイギリス東部ノリッジ(Norwich)に電気を供給していた別会社が、ロンドンのケンジントン(Kensington)を始めとする、新築の中流家庭向けタウンハウスに電気を引くようになりました。これはまとまった土地を開発するため、道路を掘り返す必要なくケーブルを引くことができたからです。
きれいなエネルギー
1910年ぐらいからは、電気の使用を促進するための宣伝も考えられました。イギリスでは、大掃除は「スプリングクリーン(Spring Clean)」といって春の復活祭の時期に行います。これはもともと、冬の間に使った暖炉や明かりから出たすすを掃除するためです。電気はガス灯のようにすすが出ませんから、「きれいなエネルギー」を売りに、春の大掃除が始まる前を狙って電気局が宣伝をしたそうです。
電気先進国が電気後進国へ
とはいっても、1914年の時点では、ガスも電気もない家が大多数でした。まだ灯芯草ろうそくを使っていた家も沢山ありました。田舎の貴族の館でも、電気はろうそくやガス灯よりも火事の危険性が高いという考えが執拗にあり、多くが20世紀半ばぐらいまで導入しませんでした。
1930年代までには送電網で全国が繋がり、各地の大規模発電所から送電されるようになり、電気代が下がりました。
1960年代までには電気の通っていない場所はかなり限られるようになりました。技術的には最先端をいっていたイギリスで電気の普及が遅れたのには、企業の独占を恐れ政府の管理を強要する政治的な問題と、変化を恐れる社会性があります。新しいものを積極的に受け入れるアメリカやドイツは電気先進国となり、イギリスは取り残されてしまいました。
グローヴナー・ギャラリーの最後
ちなみにグローヴナー・ギャラリーはリンジー准男爵の経済的な理由により、1890年に閉鎖されました。正統派と認められていなかったラファエル前派やホィッスラーらの耽美主義派、ジョージ・フレデリック・ワッツといった象徴主義派など、今やビクトリア朝を代表する画家達を一般に紹介し、美術界に大きな功績を残した彼は、期せずして電気業界の発展にも寄与することになったのです。彼とフェランティなくしてイギリスの配電システムの発達はありえなかったのです。
注:現在ロンドンにあるグローヴナー・ギャラリーは、1960年にアメリカ人のEric Estorickによりヨーロッパ美術を紹介するために作られたもので、名前は同じでも全く違うものです。