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2018年11月23日金曜日

Q:青色はどのように作られたの? 染色の歴史

先日、1516世紀に羊毛産業で栄えたラベナム(Lavenham)という町に行ってきました。その当時に建てられた木骨建築が建ち並ぶこの町は、「イギリスで最も美しい中世の町」と言われます。建築物に関してはまた別の機会にお話しするとして、今回はそこで学んだ染色について書いてみたいと思います。以前紫と赤についてお話ししましたので、今回は青に焦点を当てたいと思います。

 

©モリスの城

古代中国とエジプト


染色の歴史は長く、紀元前2600年に中国で記述されたものが一番古い記録であるとされています。もちろん文字で記されていなくても、それ以前から草木染めはあったのではないかと想像できます。

 

古代エジプトでは、第18王朝(紀元前1570紀元前1293年頃)に植物が使われるようになる前は、酸化鉄を使って赤、茶、黄色の色で染色されていました。

 

その後使われていた植物には、アルカネット()、オルキル(紫)、アカネ(赤)、ベニバナ(黄〜赤)、タイセイ(青)があり、ミョウバンが媒染剤として使われました。媒染剤というのは、染料を繊維に定着する為に使われます。

 

西暦300年ぐらいに書かれたパピルスには、古代エジプトでの染色法について触れられています。


ヨーロッパでは

 

ヨーロッパでは16世紀末に藍がインドから輸入されるようになるまで、タイセイ(Woad、ラテン名:isatis tinctoria)を使って青色を作り出していました。タイセイはアッシリア原生の植物だそうですが、早くにヨーロッパに紹介されたようです。

 

ヨーロッパで一番古いタイセイを使った生地は、オーストリアのハルシュタットで見つかったものです。紀元前1500−1100年に染められたもので、塩鉱から発見されたため、塩のおかげで色があせずにいたのだと考えられています。

 
isatis tinctoria by Alupus (creative commons)

古代ブリトン人はタイセイで敵を脅す

イギリスでも、鉄器時代(紀元前800年〜西暦45年)にはタイセイが使われていたことが、リンカーンシャーのDragonby村の発掘から証明されています。

 ローマ軍が紀元前55年に到着した時には、タイセイの青を体に塗った原住民と対峙しました。ユリアス・カエサルは「すべてのブリトン人はタイセイで自身を塗っており、戦いにおいては恐ろしい様相をなす」と書いています。

敵を怖がらせるだけでなく、タイセイには消毒効果があるので、戦場で傷を負った時に治りが早いから使われたのだ、という説もあります。また、ケルト神話の母神ダヌ(アヌとも呼ばれる)を讃えてそうしたのだという説もあります。


コベントリーブルー

 

1415世紀にはイギリス中でタイセイが栽培され、取引されていました。特に、イギリス南部のサザンプトンで採れたタイセイを使って、イギリス中部にあるコベントリーで作られた青い布は、色あせしない「コベントリーブルー」として、大人気でした。



染料の取り出し方

 

タイセイから青色の染料を取りだすのは、実は非常に手の込んだプロセスなのです。葉をすりつぶし、それを丸めて乾かします。乾いた葉をバラバラしに、発酵させます。それを粉にして、乾かします。今度はそれに水、灰、小麦ふすま、そしてしばらく置いておいた尿につけ、50度まで温めます。火から下ろし、そのまま発酵させ、その工程を通じて酸素を取り除きます。羊毛をそれにつけ、それが酸素に触れると酸化して青い色になります。1キロの葉から採れる染料はわずか14gで、1gの染料で約20gの繊維を染めることができるそうです。

 

Lavenham Guildhall 資料、写真©モリスの城
 

古い尿が必要


ちなみに染料を取り出す工程で使われる尿は、新しいものではダメで、時間が経って発酵、腐敗作用が始まらないと使えないそうです。

 

これにより、その工程はかなり臭かったことが想像できます。その為、リンカーンシャーのタイセイ染めの家族は親近結婚しなければいけなかったそうです。エリザベス1世は1585年に、その匂いに耐えかねて、マーケットタウンや衣料生産を主な糧とする街の4マイル(約6.5キロ)以内、王宮の8マイル(約13キロ)以内のタイセイの栽培は禁止するとお達しを出しました。

 

ただし、実際のところは、匂いだけが原因ではなかったようです。タイセイを栽培すると土壌が痩せてしまうということ。タイセイ栽培は食物生産よりも6倍の利益があったため、タイセイ畑が拡大され、食物の生産量が落ちてしまったこと、等が理由だったそうです。



タイセイvs

 

1600年以降になると、タイセイの栽培はガクンと減ります。これはインドから藍が入ってきたからです。それまでは青色の染料のために育てられていたタイセイは、それ以後、藍の染料を取るため、その発酵を助けるために使われるようになりました。


タイセイで染めた糸 (Lavenham Guildhall 資料、写真©モリスの城)

藍で染めた糸 (Lavenham Guildhall 資料、写真©モリスの城)

ロンドン警視庁お墨付き


19世紀半ばに開発された人工染料により、安価で簡単な染料が市場に出回り、自然染料は市場を奪われます。藍・タイセイで染められた生地は1930年代までロンドン警視庁が使用していましたが、1932年に、ついに最後の商業生産が終わりを告げました。



ラベナムの盛衰

 

ラベナムの繁栄は、14世紀にエドワード3世が織物産業を推奨したことがきっかけです 。一時は、イングランドで最も裕福な20カ所のうちに数えられる程、栄えていました。しかし16世紀になり、オランダからの難民が、ラベナムから25キロ程の距離にあるコルチェスターに住み着き、もっと軽くてファッショナブルな織物を安く提供し、それが原因でラベナムの産業が廃れていってしまいます。

 

 

ハリー・ポッターの生地


ある意味、その後基幹産業となるものがなかったお陰で、当時の建物がまだ多く残っているのです。そして、今は観光や、ハリー・ポッター等、映画やテレビ番組に使われることで、町の収入を主に得ているのではないかと思います。それでも、過去の織物産業繁栄当時の栄光を、大切に守り続けているような気がしました。




参考文献:
 
 Bucchanan, Rita, 2012, A Weaver’s Garden: Growing Plants for Natural Dyes and Fibers (Courier Corporation)
De Bello Gaallico, Lib. V, cc.12,14; Lib.iv, c.33より。http://elfinspell.com/PrimarySource55BCBritons.htmlから引用。
Edmonds, John, 1998, The History of Woad and the Medieval Woad Vat (John Edmonds)
Hartl, Anna, Gaibor, Art Néss Proaño, van Bommel, Maarten R., Hofmann-de Keijzer, Regina, “Searching for blue: Experiments with woad fermentation vats and an
explanation of the colours through dye analysis” (Journal of Archaeological Science: Reports
2 (2015) 9-39)
Hicks, Michael, ed., 2015, English Inland Trade (Oxbow Books)
Iqbal, Noor F.K., Ambivalent Blues: Woad and Indigo in Tension in Early Modern Europe (19050–Article Text-45331-1-10-20130222.pdf)
Kuhad, Ramesh Chander, Singh, Ajay ed., 2013, Biotechnology for Envionmental Management and Resource Recovery (Springer Science & Business Media) 
Little, Maureen, 2014, Home Herbal: Cultivating Herbs for Your Health, Home and Wellbeing (How To Books)  
Morton, John Chalmers, ed. A Cyclopedia of Agriculture: Practical and Scientific, in which The Theory, The Art, and The Business of Farming, Are Thoroughly and Practically Treated (Blackie and Son, London) 
O’Neill, Charles, 1869, A Dictionary of Dyeing and Calico Printing: Containing a Brief Account of All the Substances and Processes in Use in the Arts of Dyeing and Printing Textile Fabrics (Henry Carey Baird, Philadelphia) 
Van Der Veen, M., Hall, A.R., May J., 1993, ”Woad and the Britons Painted Blue”, Oxford Journal of Archaeology, vol.12, Issue 3 (Basil Blackwell Ltd.) 
Watts, D.C., 2007, Dictionary of Plant Lore (Elsevier) 
ギリシア語錬金術文献集成「錬金術断片集」002 錬金術(断片集)(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/alchemy/fralchem02.html 
http://www.woad.org.uk/html/extraction.html 
 

2016年1月19日火曜日

Q:中世のイギリスでは階層によって使う色は違っていたの? 衣服の歴史


前回カーテンの歴史について書き始めましたが、Simonan様からのコメントを読み、中世のイギリスでは、経済的だけでなくもしかして階級によって使う色が違っていたのかしら、と思いつき、色について調べてみました。

 

 

自由なおしゃれ


14世紀になるまではイギリスの国民は衣類の選択に関して比較的自由でした。社会的地位に関しても流動的で、経済的に許される範囲でおしゃれを楽しんでいた様です。とはいっても13世紀になると王宮や貴族の屋敷では着るものにより階級が示される様になりました。

 

 

緑だらけ


例えば1217年のクリスマスの王宮の人間の式服には、王付きの騎士はロシアリスの毛皮付きの、緑か紫がかった緑の服、王付きの牧師や書記、そして王宮の下士官はコニン(conin)?の毛皮付きの紫がかった緑の服、一部の召使いは子羊の毛皮付きの緑の服、そして下層の召使いは毛皮なしの緑の服でした。

 

 

命にもかかわる奢侈禁止令


イギリスでは1337年に最初の奢侈禁止令(Sumptuary Laws)が出されます。奢侈禁止令とは贅沢を禁止し、階級をはっきりさせる為のものでした。また、国内産業を奨励し、輸入品購買を抑制すること、そして人民が貯金することで万が一の場合それを徴収できるようにしておくこと、という経済的な理由もありました。

 

イギリスの奢侈禁止令は衣服だけでなく、宝飾品、家具、飲食物にまで及びました。これを破ると罰金、財産の剥奪、場合によっては死という厳しい罰が待っていました。この法律はその後何度にも渡って改正されます。

 

ここではカーテンに関連のある「布」にしぼってこの法律を見てみたいと思います。

 

 

1636年の法令


衣服により階級が定義されるようになるのに、1363年の法律が大きな役割を担いました。この中では以下のものが含まれています。

 

年収£1,000の土地を持つ領主とその家族:制限無し 

 

年収400マーク(£266 13s 4d)の土地を持つ騎士とその家族:イタチや白テンの毛皮や宝石の付いた衣服を着てはいけない。 

 

年収200マーク(£133 6s 8d)の土地を持つ騎士とその家族:一枚の布が6マーク(£4)以下の価値のもののみ。金の布や、ミニバー(キタリスの白い毛皮)の裏のついたマントやガウン、白テンの毛皮のそで、または宝石が刺繍された布は身につけてはいけない。女性は白テンの毛皮やイタチの毛皮を身につけてはいけない。 

 

年収£200の土地を持つエスクワイア(esquire:騎士になる前の位)と£1,000の価値の商品を持つ商人、その家族:一枚の布が5マーク(£3 6s 8d)以下の価値のもののみ。シルクや銀の布や、銀の飾りのあるものは身につけても良い。女性はミニバーを身につけてもいいが、イタチや白テンはいけない。 

 

年収£100の土地を持つエスクワイアや紳士(gentleman)と£500の価値の商品を持つ商人、その家族:一枚の布が4 1/2マーク(£3)以下の価値のもののみ。シルクや金銀の布や、刺繍、宝石、毛皮のついたものは身につけてはいけない。 

 

中流家庭:一枚の布が40シリング(£2)以下の価値のもののみ。シルクや金銀、刺繍、七宝、宝石のついたものは身につけてはいけない。子羊、うさぎ、猫、きつねの毛皮以外は身につけてはいけない。女性はシルクのベールをつけてはいけない。 

 

使用人とその家族:一枚の布が2マーク以下の価値のもののみ。シルクや金銀、刺繍、七宝、宝石のついたものは身につけてはいけない。女性は12d以上の価値のあるベールは身につけてはいけない。 

 

荷馬車屋、農夫、すきの機械の運転手、牛飼い、豚飼い、乳搾り、又40シリングの価値の商品を持たない土地で働く全ての者:1エル(約1.143m)あたり12dの毛布と粗皮以外の布、麻のベルト(ロープ)以外は身につけてはいけない。

以上は衣服に関する規制ですが、衣服用に入手でいる布が階層により変われば、家の中で使う布も、それに従って変わるだろうと考えられます。

 

紫は王族の色

この後何度か書き換えられますが、おもしろいのは1510年にヘンリー八世により発令されたものです。この中で紫は「国王、女王、国王の母親、国王の子供、国王の兄弟姉妹以外の者は身につけてはいけない」とあります。

 

特別な色

また、真紅又は青色のベルベットでできたガウンやコートやその他の衣装はガーター騎士団の騎士よりも位の低い者は身につけてはいけないとあります。他にも生地や毛皮等、階級別に身につけていいものいけないものが規定されています。

 


Portrait of Henry VIII of England by Holbein, Galleria Nazionale d'Arte Antica所蔵 (creative commons)


この法律は1604年にジェームス一世により廃止されるまで、267年に渡って18回の改正を経ながら人々の生活に大きな影響を与えました。

 

 

貝紫


では、何故紫が王室の色なのでしょう。「(西洋)古代紫」「貝紫」といわれるこの色は地中海でとれるアクキガイという貝の分泌物を染料として用いました。

 

貝紫 by Tyrargaman (creative commons)

 もともとフェニキアのティリアで多く生産され、その染色法を秘伝とした為ティリアパープルとも呼ばれます。1.5gの色素をとりだすのに12千の貝が必要で、紀元後400年には古代ローマ人の乱獲によりすでに原料不足になってしまった為、非常に高価でした。また、色素は日光にあてるとあせるどころかますます深い美しい色になったのでそれも人気の理由でした。

 

 

オルチル


1453年のコンスタンチノープルの陥落により、貝紫の大量生産も幕を閉じました。その後はオルチルの地衣からとれる染料を使いました。地衣も成長が遅いため、生産は限られていました。

オルチルの染料で染めたもの by Oguenther (creative commons)
 

ケルメス

 

1464年に法王パウル二世がケルメスという虫からとれる染料を使った真紅の染料を「枢機卿の紫」として紹介しました。それは貝紫に取って代わる程人気を博しました。


1133-1134年シチリア王のマント Kunsthistorisches Museum, Vienna (creative commons)
 

コチニール


16紀後半までには南アメリカで使用されていたコチニールカイガラムシからとれるさらにあざやかな染料がスペイン経由でヨーロッパに紹介されました。

 
 

イギリス原産の色

 

イギリスにはそれまでも赤い色はありました。アカネからとれる染料です。ケルメスやコチニールの真紅の色が高貴な色とされたのに比べ、アカネの赤は位の低い者が身につけました。

上二つがアカネ、下3つがコチニールで染めたもの。©モリスの城
    

青についても同じ事が言えます。タイセイからとれる染料は昔からあり、位の低い者が身につけたのに対し、藍色はインドから染料を輸入するために高価であった為、高貴な色とされました。



タイセイで染めたもの
藍で染めたもの
  
 

また、アカネやタイセイの色は日に当たると色があせやすかったのです。

 

このように入手の難しい深い色は高貴な色とされ、原生の植物からとれる色は位の低い者が主に身につけました。