前回カーテンの歴史について書き始めましたが、Simonan様からのコメントを読み、中世のイギリスでは、経済的だけでなくもしかして階級によって使う色が違っていたのかしら、と思いつき、色について調べてみました。
自由なおしゃれ
14世紀になるまではイギリスの国民は衣類の選択に関して比較的自由でした。社会的地位に関しても流動的で、経済的に許される範囲でおしゃれを楽しんでいた様です。とはいっても13世紀になると王宮や貴族の屋敷では着るものにより階級が示される様になりました。
緑だらけ
例えば1217年のクリスマスの王宮の人間の式服には、王付きの騎士はロシアリスの毛皮付きの、緑か紫がかった緑の服、王付きの牧師や書記、そして王宮の下士官はコニン(conin)?の毛皮付きの紫がかった緑の服、一部の召使いは子羊の毛皮付きの緑の服、そして下層の召使いは毛皮なしの緑の服でした。
命にもかかわる奢侈禁止令
イギリスでは1337年に最初の奢侈禁止令(Sumptuary Laws)が出されます。奢侈禁止令とは贅沢を禁止し、階級をはっきりさせる為のものでした。また、国内産業を奨励し、輸入品購買を抑制すること、そして人民が貯金することで万が一の場合それを徴収できるようにしておくこと、という経済的な理由もありました。
イギリスの奢侈禁止令は衣服だけでなく、宝飾品、家具、飲食物にまで及びました。これを破ると罰金、財産の剥奪、場合によっては死という厳しい罰が待っていました。この法律はその後何度にも渡って改正されます。
ここではカーテンに関連のある「布」にしぼってこの法律を見てみたいと思います。
1636年の法令
衣服により階級が定義されるようになるのに、1363年の法律が大きな役割を担いました。この中では以下のものが含まれています。
年収£1,000の土地を持つ領主とその家族:制限無し
年収400マーク(£266 13s 4d)の土地を持つ騎士とその家族:イタチや白テンの毛皮や宝石の付いた衣服を着てはいけない。
年収200マーク(£133 6s 8d)の土地を持つ騎士とその家族:一枚の布が6マーク(£4)以下の価値のもののみ。金の布や、ミニバー(キタリスの白い毛皮)の裏のついたマントやガウン、白テンの毛皮のそで、または宝石が刺繍された布は身につけてはいけない。女性は白テンの毛皮やイタチの毛皮を身につけてはいけない。
年収£200の土地を持つエスクワイア(esquire:騎士になる前の位)と£1,000の価値の商品を持つ商人、その家族:一枚の布が5マーク(£3 6s 8d)以下の価値のもののみ。シルクや銀の布や、銀の飾りのあるものは身につけても良い。女性はミニバーを身につけてもいいが、イタチや白テンはいけない。
年収£100の土地を持つエスクワイアや紳士(gentleman)と£500の価値の商品を持つ商人、その家族:一枚の布が4 1/2マーク(£3)以下の価値のもののみ。シルクや金銀の布や、刺繍、宝石、毛皮のついたものは身につけてはいけない。
中流家庭:一枚の布が40シリング(£2)以下の価値のもののみ。シルクや金銀、刺繍、七宝、宝石のついたものは身につけてはいけない。子羊、うさぎ、猫、きつねの毛皮以外は身につけてはいけない。女性はシルクのベールをつけてはいけない。
使用人とその家族:一枚の布が2マーク以下の価値のもののみ。シルクや金銀、刺繍、七宝、宝石のついたものは身につけてはいけない。女性は12d以上の価値のあるベールは身につけてはいけない。
荷馬車屋、農夫、すきの機械の運転手、牛飼い、豚飼い、乳搾り、又40シリングの価値の商品を持たない土地で働く全ての者:1エル(約1.143m)あたり12dの毛布と粗皮以外の布、麻のベルト(ロープ)以外は身につけてはいけない。
以上は衣服に関する規制ですが、衣服用に入手でいる布が階層により変われば、家の中で使う布も、それに従って変わるだろうと考えられます。
紫は王族の色
この後何度か書き換えられますが、おもしろいのは1510年にヘンリー八世により発令されたものです。この中で紫は「国王、女王、国王の母親、国王の子供、国王の兄弟姉妹以外の者は身につけてはいけない」とあります。
特別な色
また、真紅又は青色のベルベットでできたガウンやコートやその他の衣装はガーター騎士団の騎士よりも位の低い者は身につけてはいけないとあります。他にも生地や毛皮等、階級別に身につけていいものいけないものが規定されています。
Portrait of Henry VIII of England by Holbein, Galleria Nazionale d'Arte Antica所蔵 (creative commons) |
この法律は1604年にジェームス一世により廃止されるまで、267年に渡って18回の改正を経ながら人々の生活に大きな影響を与えました。
貝紫
では、何故紫が王室の色なのでしょう。「(西洋)古代紫」「貝紫」といわれるこの色は地中海でとれるアクキガイという貝の分泌物を染料として用いました。
貝紫 by Tyrargaman (creative commons) |
もともとフェニキアのティリアで多く生産され、その染色法を秘伝とした為ティリアパープルとも呼ばれます。1.5gの色素をとりだすのに1万2千の貝が必要で、紀元後400年には古代ローマ人の乱獲によりすでに原料不足になってしまった為、非常に高価でした。また、色素は日光にあてるとあせるどころかますます深い美しい色になったのでそれも人気の理由でした。
オルチル
1453年のコンスタンチノープルの陥落により、貝紫の大量生産も幕を閉じました。その後はオルチルの地衣からとれる染料を使いました。地衣も成長が遅いため、生産は限られていました。
オルチルの染料で染めたもの by Oguenther (creative commons) |
ケルメス
1464年に法王パウル二世がケルメスという虫からとれる染料を使った真紅の染料を「枢機卿の紫」として紹介しました。それは貝紫に取って代わる程人気を博しました。
1133-1134年シチリア王のマント Kunsthistorisches Museum, Vienna (creative commons) |
コチニール
16紀後半までには南アメリカで使用されていたコチニールカイガラムシからとれるさらにあざやかな染料がスペイン経由でヨーロッパに紹介されました。
イギリス原産の色
イギリスにはそれまでも赤い色はありました。アカネからとれる染料です。ケルメスやコチニールの真紅の色が高貴な色とされたのに比べ、アカネの赤は位の低い者が身につけました。
青についても同じ事が言えます。タイセイからとれる染料は昔からあり、位の低い者が身につけたのに対し、藍色はインドから染料を輸入するために高価であった為、高貴な色とされました。
また、アカネやタイセイの色は日に当たると色があせやすかったのです。
このように入手の難しい深い色は高貴な色とされ、原生の植物からとれる色は位の低い者が主に身につけました。
モリスの窓さま、大変詳しく教えていただきありがとうございます。やはり、その染料の入手の難しさが希少価値を生むのですね。このように考えると、イギリスだけでなく、日本も江戸時代初期には、かなり制限があったのかなと想像します。むかーしに見た「マルタンの帰郷」という映画で、農民の服が茶系で統一されていて、妙にリアルに感じたことを思い出しました。現代では、逆に自然素材で染めたナチュラルカラーが好まれたりするのを見ると、感慨深いものがあります。。
返信削除Shimonan様、ありがとうございます。前回いただいたコメントにより今回色について調べてみようと思い立ちました。日本でも聖徳太子の時代からいろいろと制限はあったみたいですね。江戸時代には奢侈禁止令が何度も発令されたようです。この後化学染料ができてから色に対しての感覚が変わったのだと思います。この辺はもう少ししてから調べてみたいと思います。
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