2016年10月31日月曜日

Q:暖炉にも税金がかかったの? 暖炉の歴史


以前に窓税について書きましたが、その前身が暖炉税(hearth taxです。窓税は窓の数に従って税金が決まっていましたが、暖炉税は暖炉の数に従って税金が決まっていました。


王政にはお金がかかる

 

イギリスは、チャールズ一世(1600-1649)が清教徒革命で処刑された後、共和国になります。護国卿として国を統治していたオリバー・クロムウェル(1599-1658)が死亡し、息子のリチャードが後を継ぎますが力及ばず、2年後の1660年に王党派が、亡命していたチャールズ一世の息子であるチャールズ二世(1630-1685)を迎え、王政復古を行います。

 

チャールズ二世が戴冠するにあたって、国が勝手に定めた価格で強制的に必要物資を買い上げる徴発権を廃止する代わりに、国を治める為に年収120万ポンドを王の収入と定めました。このお金は消費税や関税からの収入から当てられる予定でしたが、足らず、1661年には30万ポンド不足していました。その不足分を埋める為に1662519日に生まれたのが暖炉税です。

17世紀の暖炉 ©モリスの城

 

暖炉の数によって決まる


これは暖炉の数により税金を払うというものです。暖炉の数が多いほど裕福であるという発想の元に生まれました。

 

労働層、貧困層は暖炉が12つ、職人、店主、あまり裕福でない商人は25つ、裕福な中流家庭、専門職に就く者や軍の将校クラスは4128つ以上の住居は貧窮院、病院、宿屋、または貴族や影響力を持つ専門職に就く者の家でした。

 

税額は一つの暖炉につき年に2シリングで、これは929日のマイケルマス(天使を讃える日:Michaelmas)の日と、325日のレディデイ(受胎告知の祝日:Lady Day)に2回に分けて支払うことになっていました。

 

ただし、貧困の為に固定資産税(Rate)と救貧税(Poor Rate)を免除されている者は、免除されました。また、家の価値が年20シリング以下の家は、その家主が他に年20シリング以上の家を持っているか、十ポンド以上の物を持っていない限り、免除の対象になりました。ただしこの場合は、1年ごとにチェックされ、証明書を書いてもらわなければいけませんでした。

 

 1664年には免除対象が狭まり、暖炉の数が2つ以下の住居でなければ、免除されないようになりました 。また、一定以下の収入の工場のブリキやガラスの溶解炉や磁器陶器の窯、病院や貧窮院は免除となりましたが、鍛冶屋やパン屋の窯は免除にはなりませんでした。


©モリスの城

家に入ってチェック

最初は自己申告もあったようですが、かなりの人が過少申告をしていたようで、1663年には税金収集者が家の中に入り、すべての部屋を点検し、支払額を決めることが法で定められました。支払いが不能な場合、もしくは支払いを拒んだ場合には税金収集者はベッド、料理に必要な物、仕事道具を除く、その金額相応の物を取っていきました。

 

税金の逃れで火事


税逃れの為に暖炉を閉じてしまおう、と考えた人もいましたが、それが見つかった場合、2倍の額を請求されました。

 

 1684730日には、オクスフォードシャーのチャーチルという場所のパン屋が、税逃れのために仕事用の竃を隣の家の煙突につなげようと暖炉を壊したら、それが原因で火事が起き、20件の家が燃え、四人が亡くなったという事件も起きました。

 

 

ペストの時期の税徴収


さて、実はロンドンの暖炉税徴収について興味深い事実があります。

 

1665年にはロンドンでペストが大流行しました。そのため、1666年の3月の徴収は遅れに遅れ、9月に入ってもまだ3月分の徴収の為に税金集金者が家々を回っている状態でした。


"Two men discovering a dead woman in the street during the Great Plague of London" This file comes from Wellcome Images, a website operated by Wellcome Trust, a global charitable foundation based in the United Kingdom. Refer to Wellcome blog post (archive)

ロンドン大火と暖炉税

92日の日曜日、Pudding Laneにあるパン屋のThomas Farrinorは、仕事用の竃の火を消さずにベッドに入ります。竃の火花がパン用小麦粉袋に飛び、それに火がついてしまいます。こうして1666年にロンドン大火が起こります。

 

この原因となった竃も暖炉税の対象になっており、税金収集者はその少し前にここを訪れたばかりでした。暖炉税の記録には、Thomas Farrinorの家には仕事用の竃一つの他に暖炉が5つあったことが記されており、そこそこ大きな家に住んでいたことがわかります。 

 

Thomasと妻は窓から飛び降りて助かりますが、召使の女性は怖がって飛び降りず、火災の被害者となってしまいます。

 

この頃のロンドンの通りは狭く、木造の家々がひしめいていました。その為この火災はあっという間に広がり、火曜日には火がこれ以上広がらないように、家やお店を取り壊すよう王が命令を出します。王自身もバケツを持って消火活動に参加したそうです。

 

ロンドンの5件に1件、13千以上の家が被害にあい、何万人という人が家を失いました。でもこの大火のおかげで、病原菌やそれのキャリアになるネズミを一掃できたそうです。

 

税金収集者にとっては、せっかくの仕事が水の泡になってしまいましたが、この時の記録のお陰で大火以前のロンドンの様子がわかります。

Great Fire of London by unknown artist, 1675 Museum of London (public domain)


暖炉税の最後

 

プライバシー侵害のこの税金はとても不人気でした。そして、思っていたよりも税金収入額は少なかったのです。年間30万ポンドを目標としていましたが、実際には最初の年にはその1/3ほどである115千ポンド、最高でも216千ポンドしか達しませんでした。

 

1689年にウィリアム三世(1650-1702)&メアリー二世(1662-1694)が王位につくと、人気を失いたくない一心でこの法律を廃止しました。そして、家の中に入らないでも数がチェックできる窓税が1696年に導入されたのです。

 





2016年9月11日日曜日

Q:子供が煙突掃除していたって本当? 暖炉の歴史

 

この家には2カ所に煙突があるのですが、紹介された煙突掃除屋さんが忙しくてなかなか時間がとれなかったこともあり、やっと先日、3年程前に引越して来てから初めて掃除をしてもらいました。

 

一つの煙突の上にはコクマルガラスが巣をつくってしまい、小枝がポロポロと落ちて来ていたのは知っていましたが、掃除してみるとでてくる、でてくる。なんと60L用のゴミ袋5袋分の小枝がでてきました。

 

私達の前に住んでいた人を含め、少なくとも5年は掃除していないので、その分の鳥の苦労の作を壊してしまうのもかわいそうな気がしましたが。でも煙突掃除屋さんによると、このくらいの巣は56日でつくってしまうそう。彼の経験上一番大変だったのは、この5倍程の量で、掃除するのに5時間かかったそうです。


©モリスの城

登る少年


実はディズニー映画「メアリー・ポピンズ」でも有名なこの仕事、イギリスでは一時期は子供達がやっていたのです。

 

工業化に伴い、18世紀の後半から、平均年齢10歳の児童労働者が工場や炭坑、また、煙突掃除屋として働いていました。彼らは孤児や貧しい家の子供達で、雇用者に弟子入りさせられ、仕事の報酬として衣食住の面倒をみてもらっていました。

 

体の小さい子供は煙突の中に入れるので、狭い煙突の中を掃除するのに最適だと思われていました。「climbing boys(登る少年)」と呼ばれるこの子達は煙突の中を登り、中をブラシできれいにし、木材を燃やす事ででるタールを削り取る仕事をしました。

 

 

危険な仕事


 ディズニーの描写とは裏腹に、煙突掃除の仕事は過酷なものでした。埃やすすの吸引による窒息ややけど、また煙突の中につっかかり動けなくなる等して多くの子供達が亡くなりました。

 

さらに、1775年には外科医のPercivall Pottが、毎日その仕事を行う事による毒素吸引と陰嚢癌の関連について発表しています。子供の頃からclimbing boysとして煙突掃除に携わっていた人の癌の発病率が顕著に高かったそうです。

 

A seven-flue stack, showing how it would be cleaned by Climbing boys, or with little modification by a human cleaning machine (a brush). Joseph Glass, 1834, Mechanics' Magazine (public domain)
 

半数が児童労働者


1821年には全労働者のほぼ半数、49%が20歳未満の子供でした。児童労働者の様子はチャールズディケンズ、チャールズ・キングスレーを始めとするヴィクトリア時代の小説からも読み取る事ができます。

 

 1760年代には裕福な商人で慈善家であるJonas Hanwayが煙突掃除屋の児童労働者の労働環境改善の為に運動を起こし、1788年にはChimney Sweeps Act(煙突掃除法)で弟子の最低年齢は7歳だと決められました。とはいえ、法的効力はあまりありませんでした。

 

 

子供の方が機器より効果的


1819年の下院議会で、煙突掃除の親方達は、お客さんは子供達の方が煙突掃除用機器よりも効率的に掃除すると思っているので、機器を使って掃除をしたら、お客さんがいなくなってしまう、と証言しています。



The Little Chimney Sweep by unknown engraver 1828 (public domain)

 

10歳以下は禁止…のはず


1830年代になると、イギリス議会は児童労働者の搾取問題により積極的に取り組む様になり、1834年の煙突掃除法では10歳未満の弟子をとることを禁止し、実際に煙突掃除に携われるのは14歳以上と定められました。

 

1840年には弟子の最低年齢は16歳に引き上げられましたが、まだ10歳以下の子供達が煙突の中を登らされているのが実状でした。

 

1875年になってやっと、煙突掃除は免許制になり、弟子の年齢制限を取り締まるのは警察の仕事であると定められました。

 

 

義務教育の導入


1878年にはすべての仕事で10歳未満の児童労働が禁止になり、児童労働廃止に向けて、1880年には10歳まで義務教育になりました。義務教育の年齢は1893年には11歳に、1899年には12歳になりました。

 

しかし、1901年時点で、まだ30万人の子供達が学校の時間外に働いていました。仕事の為に学校をさぼることも大きな問題の一つでした。親としては、子供が稼いできた収入が減ると家計に響くので、学校に行かせるよりも仕事に行かせたいという人もいたからです。


Child welfare; Ragged School, Whitechapel, 19thC Wellcome Collection (public domain)

小さい大人から子供へ


とはいえ、1889年には全英児童虐待防止協会(NSPCC: National Society for the Prevention of Cruelty to Children)も設立され、19世紀末から20世紀初頭には、子供達は仕事に行く代わりに学校に行く様になり、「小さい大人」から子供でいられるように変わってきたのです。

 

 

お風呂の効用


さて、18世紀に煙突掃除と癌の関連が浮上した時に、医者は患者に何とアドバイスしたでしょう。実は「毎日お風呂に入る事」だったのです。以前にも述べましたが、当時普通の人達は定期的にはお風呂に入りませんでした。でも、実際にそのアドバイスにしたがっただけで、癌の発病率がガタンと下がりました。