王政にはお金がかかる
イギリスは、チャールズ一世(1600-1649)が清教徒革命で処刑された後、共和国になります。護国卿として国を統治していたオリバー・クロムウェル(1599-1658)が死亡し、息子のリチャードが後を継ぎますが力及ばず、2年後の1660年に王党派が、亡命していたチャールズ一世の息子であるチャールズ二世(1630-1685)を迎え、王政復古を行います。
チャールズ二世が戴冠するにあたって、国が勝手に定めた価格で強制的に必要物資を買い上げる徴発権を廃止する代わりに、国を治める為に年収120万ポンドを王の収入と定めました。このお金は消費税や関税からの収入から当てられる予定でしたが、足らず、1661年には30万ポンド不足していました。その不足分を埋める為に1662年5月19日に生まれたのが暖炉税です。
17世紀の暖炉 ©モリスの城 |
暖炉の数によって決まる
これは暖炉の数により税金を払うというものです。暖炉の数が多いほど裕福であるという発想の元に生まれました。
労働層、貧困層は暖炉が1〜2つ、職人、店主、あまり裕福でない商人は2〜5つ、裕福な中流家庭、専門職に就く者や軍の将校クラスは4〜12、8つ以上の住居は貧窮院、病院、宿屋、または貴族や影響力を持つ専門職に就く者の家でした。
税額は一つの暖炉につき年に2シリングで、これは9月29日のマイケルマス(天使を讃える日:Michaelmas)の日と、3月25日のレディデイ(受胎告知の祝日:Lady Day)に2回に分けて支払うことになっていました。
ただし、貧困の為に固定資産税(Rate)と救貧税(Poor Rate)を免除されている者は、免除されました。また、家の価値が年20シリング以下の家は、その家主が他に年20シリング以上の家を持っているか、十ポンド以上の物を持っていない限り、免除の対象になりました。ただしこの場合は、1年ごとにチェックされ、証明書を書いてもらわなければいけませんでした。
1664年には免除対象が狭まり、暖炉の数が2つ以下の住居でなければ、免除されないようになりました 。また、一定以下の収入の工場のブリキやガラスの溶解炉や磁器陶器の窯、病院や貧窮院は免除となりましたが、鍛冶屋やパン屋の窯は免除にはなりませんでした。
©モリスの城 |
家に入ってチェック
最初は自己申告もあったようですが、かなりの人が過少申告をしていたようで、1663年には税金収集者が家の中に入り、すべての部屋を点検し、支払額を決めることが法で定められました。支払いが不能な場合、もしくは支払いを拒んだ場合には税金収集者はベッド、料理に必要な物、仕事道具を除く、その金額相応の物を取っていきました。
税金の逃れで火事
税逃れの為に暖炉を閉じてしまおう、と考えた人もいましたが、それが見つかった場合、2倍の額を請求されました。
1684年7月30日には、オクスフォードシャーのチャーチルという場所のパン屋が、税逃れのために仕事用の竃を隣の家の煙突につなげようと暖炉を壊したら、それが原因で火事が起き、20件の家が燃え、四人が亡くなったという事件も起きました。
ペストの時期の税徴収
さて、実はロンドンの暖炉税徴収について興味深い事実があります。
1665年にはロンドンでペストが大流行しました。そのため、1666年の3月の徴収は遅れに遅れ、9月に入ってもまだ3月分の徴収の為に税金集金者が家々を回っている状態でした。
"Two men discovering a dead woman in the street during the Great Plague of London" This file comes from Wellcome Images, a website operated by Wellcome Trust, a global charitable foundation based in the United Kingdom. Refer to Wellcome blog post (archive) |
ロンドン大火と暖炉税
9月2日の日曜日、Pudding Laneにあるパン屋のThomas Farrinorは、仕事用の竃の火を消さずにベッドに入ります。竃の火花がパン用小麦粉袋に飛び、それに火がついてしまいます。こうして1666年にロンドン大火が起こります。
この原因となった竃も暖炉税の対象になっており、税金収集者はその少し前にここを訪れたばかりでした。暖炉税の記録には、Thomas Farrinorの家には仕事用の竃一つの他に暖炉が5つあったことが記されており、そこそこ大きな家に住んでいたことがわかります。
Thomasと妻は窓から飛び降りて助かりますが、召使の女性は怖がって飛び降りず、火災の被害者となってしまいます。
この頃のロンドンの通りは狭く、木造の家々がひしめいていました。その為この火災はあっという間に広がり、火曜日には火がこれ以上広がらないように、家やお店を取り壊すよう王が命令を出します。王自身もバケツを持って消火活動に参加したそうです。
ロンドンの5件に1件、1万3千以上の家が被害にあい、何万人という人が家を失いました。でもこの大火のおかげで、病原菌やそれのキャリアになるネズミを一掃できたそうです。
税金収集者にとっては、せっかくの仕事が水の泡になってしまいましたが、この時の記録のお陰で大火以前のロンドンの様子がわかります。
暖炉税の最後
プライバシー侵害のこの税金はとても不人気でした。そして、思っていたよりも税金収入額は少なかったのです。年間30万ポンドを目標としていましたが、実際には最初の年にはその1/3ほどである11万5千ポンド、最高でも21万6千ポンドしか達しませんでした。
1689年にウィリアム三世(1650-1702)&メアリー二世(1662-1694)が王位につくと、人気を失いたくない一心でこの法律を廃止しました。そして、家の中に入らないでも数がチェックできる窓税が1696年に導入されたのです。
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