2018年10月14日日曜日

Q:この窓はどうして他とは違うの? 窓の歴史

この家の窓の半数ぐらいは、ずっと窓が開きませんでした。朝窓を開けて空気を入れ替えられないなんて!暑い時でも窓を開けて風を入れることができないなんて!と思いながら5年間。やっと窓の修理をしてもらえることになりました。

 

お役所にお伺い

修理をしてもらうにしても、この家は Grade II Listed」といって、 建築的歴史的重要建造物リスト(the Statutory List of Buildings of Special Architectural or Historic Interest)に載っているので、以前にも書きましたが、役所の保存担当者に許可が必要かお伺いをたてる必要があります。連絡してみると、「ただの修理か、見かけも素材も全く同じものに差し替えるのであれば、許可を得る必要がない」とのことでした。

基本的に、もともとこの建物についてるのは「上げ下げ窓」です。これは英語では「サッシ窓(sash window)」と呼びます。日本でいうサッシは、窓枠を用いた建具のことを指しますから、それとは違いもっと特定のものを指します。


©モリスの城

どの時点にさかのぼる?


ただ、一番上の階の窓はケース窓 case windowと呼ばれるものです。「これは建築当初は上げ下げ窓だったはずなんだよね。上げ下げ窓に替えないとダメだって言われるかもしれませんよ」と業者が言うので、それも聞いてみました。そうしたら「リストに載った時点でケース窓だったので、変えるなら歴史的に上げ下げ窓だったということを証明して、許可を得なければいけない」というので、面倒な為そのまま直してもらうだけにしました。

©モリスの城

この建物を治してくれる修理業者は、古い上げ下げ窓の修理に特化しており、300年ぐらい前に建てられたケンブリッジ大学の建物や教会、 お屋敷なども扱っていますが、こう言っていました。

「例えばリストに載る前に1つの窓が、新しいスタイルに変えられていたとしたら、理屈で言えば、その窓は他の古い窓に合わせて直されるべきだ。でも、リストに載った時点が基点になっているので、それに合わせないといけないというのが、ほとんどの保存担当者の意見なんだ。まあ、たま〜にいい保存担当員がいて、あるお屋敷の修復をやった時に、一緒に史料を調べてくれて、無事古い窓に合わせて変える許可を得たことがあったけど、それは稀だね」

 

建築的歴史的重要建造物リストの歴史

では、基点になる建築的歴史的重要建造物リストはいつできたのでしょう?

ちょっと前になりますが、古建築物保存協会(SPAB: Society for Protection of Ancient Buildings)の会長を28年務め、長年建造物の保護に携わってきたPhilip Venning 氏の講演があり、そこで氏が説明してくれました。SPABは1877年に「モダンデザインの父」とも称されるウィリアム・モリスWilliam Morris)によって設立された組織です。

 

「より良いものに変える」修復

長年放置され、荒れ放題になっていた教会の修復が行われる様になったのは、1770年代からです。その頃流行していたクラシックスタイルは、その基になった古代ギリシャ・ローマがキリスト教でなかった為、それよりも中世のゴシック建築の方が純キリスト教スタイルだとして好まれました。

当時は「修復」と言っても、「傷んだ所を元通りにする」というよりは、「より良いものに変える」という考えが主流でした。ゴシックスタイルの教会であっても、「より良いゴシックスタイルに変える」様「修復」されました。

当時の建築家はクラシックスタイルに傾倒しており、クラシックスタイルではバランスや対称が非常に重要だと考えられていました。その為もともとの教会の構造を無視し、バランスのとれた建物にしようとしたのです。

ただし、デザインの他にも理由がありました。カトリック時代に建てられた教会は、イギリスが取り入れたプロテスタントの礼拝法に合う様に作り替えられる必要があったのです。

 

最初の建築家の意思を尊重

そのような風潮の中、ケンブリッジ大学やイーリー大聖堂、リンカーン大聖堂の修復にかかわったJames Essex1722〜84)は、最初に建てた建築家の意図にしたがって修復をするように心がけました。

©モリスの城

 

建築物保護の動き

 19世紀も中盤に入ると、革新的な建築家を中心に、現存するものを取り壊して新しい物に「修復する」という考え方に疑問を持ち始めます。

1841年には、中世の専門家John Brittonが教会、城、個人の家といった、国の重要建築物のリストを作り、彼の働きで、その修繕と保護に関して助言を与える調査委員会が設置されますが、一件レポートを制作しただけで、それは葬りさられてしまいます。それでもなるべく元のままの姿を残し、「修繕する」という考え方は、教会の修復を中心に徐々に広まっていきました。

1865年には、王立英国建築家協会(RIBA: Royal Institute of British Architects)が建築物保護に関してのガイドラインを定めます。この中で、どんな建物も歴史的価値があるが、その真正性が破壊されてしまったらその価値を失ってしまう、その為事前の考古学的、歴史的調査が最も大切だとしています。


ウィリアム・モリスと建築物保護運動

ウィリアム・モリス自身が建物修復の抗議運動に最初にかかわったのは1874年です。ハムステッド教区教会の塔を、現存のジョージ朝スタイルからゴシックスタイルに建て直すというものでした。抗議運動のリーダーであったBasil Champneysは、「町の景観に影響する塔は、ある意味公共のものであり、その為事前に地元住民に相談するべきである」としています。この抗議のお陰で、この「修復」は2年後に断念されました。

この成功をきっかけに、モリスは古建築物保存協会(SPAB: Society for Protection of Ancient Buildings)を立ち上げました。最初のうちは、友人のみで運営していましたが、徐々に全国から修復抗議運動依頼がおしよせるようになり、組織的に大きくなって行きます。

その対象は中世の教会が主でしたが、そのうちに一般建築の依頼も増え、19世紀末には手がけた総件数の10〜15%は、小さな一般建築や橋、農家の建物になりました。

 SPABは、建築家だけでなく、実際に修復に関わる職人もきちんとした知識が必要だとし、1903年には古建築修理に関するハンドブックを出版しました。


法律化の動き

SPABの設立メンバーの一人John Lubbock卿の働きで、1874年には古建築保護を法律化する為に、初めて国会で討論が行われました。「個人の所有物に口をだすな」とかなり反対がありましたが、1882年についにAncient Monuments Act(遺跡法)ができました。しかし、これはまだストーンヘンジ等の遺跡に限られていました。

1890年に制定されたAncient Monuments Protection Actでは、ancient monumentは住居を除く「建築的、歴史的に重要な建造物、建築物、遺跡」と定義しています。これにより初めて州義会に、その保護や維持、管理に関する権限が与えられます。

1913年には、The Ancient Monuments Consolidation and Amendment Actが施行されます。ここではancient monumentは、「特別に歴史的、建築的、伝統的、美術的、又は考古学的重要さにおいて、その保存が大切だと思われる建造物、もしくはそのような建造物の敷地、またはその遺跡」と定義しています。

国的に重要だと思われる建造物をリストアップし、そしてここで初めて、そのリストに載っている建造物の所有者は、改装など手を入れる場合には、許可をとらなければならなくなりました。ただしこれには一般住宅は含まれていませんでした。

1930年代から1940年代にかけて制定されたTown and Country Planning Actのなかで、「特に建築的歴史的に重要な建物に関して、管理州議会の許可なしに取り壊してはいけない」とあります。しかし、実際それが守られていたかというと、かなりあやしかったようです

 

空襲が建造物保護を促進

 
第二次世界大戦中に、ドイツ軍からの空襲でイギリス各地の建物が破壊されました。戦争が終わるとその状況が調べられ、守るべき建物がリストアップされました。それを基に1947年にTown and Country Planning Act にて、リストアップされた住居等通常の建造物の保護が法律化されました。
 
しかし、50年代、60年代とリストに載っている建築が特に地方で次々と解体されたことを受け、1968年のPlanning Actで現行のリストの概念が初めて導入され、さらに厳しい計画手続きを強制することになりました。
 
ここから更に発展して総合的な法律になったのが、1990年に導入された(建築的歴史的重要建造物及び保護区域)計画法(Planning〈Listed Buildings and Conservation Areas〉Act 1990)で、ここで建築的歴史的重要建造物リスト(the Statutory List of Buildings of Special Architectural or Historic Interest)が正式に生まれました。


マンパワー

 
面白いのは、もともとは国が保護をしようと思ったのではなく、一般の人たちの残したいという想いがその法律を作ったということです。今でも建築改築の許可申請がされると、一般の住民が意見を言うことができます。私が住んでいる町では、1960年代にビクトリア朝に建てられた穀物取引所が取り壊されたことがトラウマになっているらしく、町の人たちが集まって建築改築許可をいちいち細かくチェックします。

さて、こう考えてみると、リストが作られるようになったのは20世紀も半ばの頃。それまでには古い建物は様々な形で改築されてきています。ですからそれを頑なに基準にするというのもなんだか疑問が残りますね。


 参考文献:
 
Jokilehto, Jukka, History of Conservation (M.Phil paper)
Mynors, Charles, 2006, Listed Buildings, Conservation Areas and Monuments (Sweet & Maxwell)
William Morris, 1996, Victoria and Albert Museum catalogue (Philip Wilson Publishers Limited)

Town and Country Planning Act 1932
http://www.legislation.gov.uk/ukpga/1932/48/enacted

UK Parliament website, Managing and Owning the Landscape, "Preserving Historic Sites and Buildings"


2018年9月30日日曜日

Q:ジュリエットバルコニーって何? バルコニーの歴史


お隣のオフィスビルのオーナーが変わり、共同住宅用に改装されることになりました。その開発業者が挨拶に来て話をしている時に、「ジュリエットバルコニーをつけて外観を良くする予定」だと言いました。80年代に建てられたこのビルはお世辞にも美しいとは言えませんが、「ジュリエットバルコニー」とは何でしょう?


おおロミオ!

 
もちろんこのジュリエットは、1591年〜1597年に書かれたとされるシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に由来します。「おおロミオ、ロミオ、何故あなたはロミオなの?」ジュリエットの部屋のバルコニー越しに若い二人が湧き上がる情熱を語り、甘い愛の言葉を交わすシーンは有名です。
 
その舞台になったのはイタリア北部のヴェローナ。そこには、ジュリエットのモデルになった、カプレーティ家の娘が暮らしていたと言われる邸宅があります。でもそこにあるバルコニーは20世紀になってからつけられたそうです


シェイクスピアにはバルコニーは出てこない

 
実は、シェイクスピア自身イタリアに行ったことがないばかりか、Pia Brinzeuによると作品の中で「バルコニー」という言葉も一切使っていないのです。その代わり「window(窓)」としています。
 
彼の作品の基になったマッテーオ・バンデッロの『Giuletta e Romeo』(1554)、アーサー・ブルックの『ロミウスとジュリエットの悲劇の物語』(1562)とウィリアム・ペインター の『ロミオとジュリエッタ』(1566〜67の中でもバルコニーではなく窓となっています
 
『ロミオとジュリエット』の原型はイタリアの作家マスッチオ・サレルニターノ の『マリオットとジアノッツァ』(1476)だと言われていますが、そこにバルコニーが出てくるかはわかりません。でも1524年にルイージ・ダ・ポルトによって書かれた『Giuletta e Romeo』にはバルコニーが出てきます
 
これは私の個人的な推測ですが、映画『恋に落ちたシェイクスピア』(1998年)のような設定で、シェイクスピアの時代の劇場で2階席にジュリエットが、舞台にロメオが出てきて愛を語り合ったところから、バルコニーに発展したのではないでしょうか。


イギリスにはバルコニーはなかった!

 
すでに述べましたように、カプレーティ家の邸宅にはバルコニーがなかったので、事実に基づけばやはり窓というのが正解なのかもしれません。でも、シェイクスピアやブルック、そしてペインターといったイギリスの作家がバルコニーという言葉を使わなかった主な理由は、おそらく、その時代にはイギリスにはバルコニーがなかったからです。
 
1611年にThomas Coryatはフランス、イタリア、ドイツ他ヨーロッパの国を周遊して書いた見聞記『Coryat’s Crudities: Hastily Gobled up in Five Moneth’s Travels』の中で、イタリアで見たバルコニーについて物珍しそうに記述しています

「ベネチアの建物の正面の真ん中より上方、正面の最上部よりも少し下、窓の向かいに建物からせり出した素敵な小さいテラスがある」


イタリア風建築

 
イギリスの建物にバルコニーを紹介したのは、イタリアで勉強した建築家イニゴー・ジョーンズ(Inigo Jones)のようです。17〜18世紀には、良家の子息がフランス経由でイタリアに旅行し、ヨーロッパの洗練された文化やマナーを学ぶ、グランドツアーというものが人気になりました。
 
イニゴー・ジョーンズは良家出身ではありませんが、彼の絵の才能が買われ、貴族の子息についてイタリアに行き、ローマ帝国時代の遺跡を見、パッラーディオ(Andrea Palladio)の建築物を研究し、その古典スタイルをイギリスに紹介しました。

彼のデザインしたロンドンのクイーンズ・ハウス(Queens House、1616〜1635築)やバンケティング・ハウス(Banqueting House、1619〜1622年築)には、石の手すりが付いたバルコニーが見られます。
 
1570年に建築が開始されたカービー・ホール(Kirby Hall)も1636年にジョーンズが手を加え、鉄製の手すりが付いたバルコニーがつけられました。これがイギリス最初の鉄製のバルコニーのようです。

Queens House By Bill Bertram [CC BY-SA 2.5  (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5)], from Wikimedia Commons
Banqueting House ©モリスの城

Kirby Hall, By Craigthornber [CC BY-SA 3.0  (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], from Wikimedia Commons
 

イギリスは寒すぎる


1659年までにはバルコニーはロンドンで人気になり、コベント・ガーデンの「すべての家」には付いていたそうですが、残念ながらその頃の建物は現存していません。ただやはり寒いイギリスの気候に合わない為、イギリスのバルコニーは広くなく、ほとんど飾り程度でした。そのため「バルコネット(小さいバルコニー)」とも呼ばれました。


大きい窓と手すり

 
1770年代になると、テラスハウスの二階部分に、大きい窓をつけることが流行りました。二階は、通常お客さんをもてなす最も重要な階だった為です。床から天井までの大きさの窓もあり、安全の為に手すりが付けられました。一窓ごとについたものもあれば、何件か続いたものもあります。

1768-74 by Robert Adam ©モリスの城

Charles Dickens Museum, c.1807-9 ©モリスの城
 

フランス風ドア


1780年代か1790年代からは、窓の代わりに外に出られるように、フレンチドアと呼ばれる観音開きのドアが取り付けられるようになりました。ちなみにフレンチドアは、名前の通り、パリの建物によく見られるフランスのデザインから来ています。フレンチドアのついたバルコニーは、鋳鉄の技術的進歩と普及と共に、摂政時代(Regency era、1811〜1820)に人気の絶頂を迎えます

19世紀のフレンチバルコニーのついた18世紀の家©モリスの城
 これが後「フレンチバルコニー」「ジュリエットバルコニー」と呼ばれるようになったのです。残念ながらいつから「ジュリエット」と呼ばれるようになったかはわかりませんでした。


灰色は安っぽい?


ところで、ビクトリア朝以前には、手すりなどは一般的に緑か青銅色で塗られました。灰色だと安い鉛に見えてしまうので嫌われました。通りに面していない場所は、安い鉛色のペンキで塗られました。
 
19世紀半ばになると赤が流行りました。
 
現在よく見る黒色は、1960年に入るまでほとんど見られませんでした。これは1930年代に、ポリエステル樹脂アルキドのバインダーが導入されて初めて、早く乾く黒いペンキが可能になったからです。でも当初のペンキは質が悪く、第二次世界大戦中に生産が中止され、改良され再生産が始まり、広く使われるようになったのは1950年後半になってからなのです。


ジュリエットバルコニーの人気

 
現在ジュリエットバルコニーといえば、フレンチドアのついた窓に手すりが付いたもので、バルコニーというほど外にせり出していません。最近になりまた注目を集めており、新しい建物によくつけられています。
 
狭いスペースでも光を取り入れることで広く見えること、また今年の夏のように暑くなった時、開け放すことができることで家に風を通すことができることがその理由です。また、普通のバルコニーと違い、地方自治体から建築許可を得なくていいという理由もあります。
 
今は鋳鉄だけでなく、鋼やガラスでできたものもあります。

2007年に建てられた住宅 ©モリスの城
ガラス製のジュリエットバルコニー ©モリスの城
お隣のビルが、ジュリエットの名前に相応しくロマンティックに改装されるのか、楽しみなところです。




参考文献:
神山高行、『ロミオとジュリエット』における悲劇性—ことばと時間の観点から見た劇作術についてー、東海大学短期大学紀要45号(2011)
 

Brinzeu, Pia, 2016, ‘There is No Balcony in Romeo and Juliet: Only a Love Scene’, What’s in a Balcony Scene? A Study on Shakespeare’s Romeo and Juliet and its Adaptations (Ed by Luminita Frentiu, Cambridge Scholars Publishing)
Calloway, Stephen ed., 1996, The Elements of Style: An Encyclopedia of Domestic Architectural Detail, New Edition (Reed International Books Limited)
Dobraszczyk, Paul, 2014, Iron, Ornament and Architecture in Victorian Britain (Ashgate Publishing, Ltd.)
Hall, Linda, 2005, Period House Fixture & Fittings 1300-1900 (Countryside Books)
Gardner, J. Starkie, 2017, English Ironwork of the XVIIth and XVIIIth Centuries – An Historical and Analytical Account of the Development of Exterior Smithcraft (Read Books)
Standeven, Harriet, “Problems associated with the use of gloss house-hold paints by 20th century artists , Victoria and Albert Museum, Conservation Journal, Summer 2003 Issue 44

English Heritage, Practical building conservation, Metals, (Ashgate) 
https://content.historicengland.org.uk/images-books/publications/metals-conservation/metals-marketing-spreads.pdf/

https://theculturetrip.com/europe/italy/articles/the-story-behind-juliets-balcony-in-verona/

雑誌「CREA」記事「『ロミオとジュリエット』の名場面を思い出させるバルコニーの秘密とは?」2016924