この家の窓の半数ぐらいは、ずっと窓が開きませんでした。朝窓を開けて空気を入れ替えられないなんて!暑い時でも窓を開けて風を入れることができないなんて!と思いながら5年間。やっと窓の修理をしてもらえることになりました。
お役所にお伺い
修理をしてもらうにしても、この家は 「Grade II Listed」といって、 建築的歴史的重要建造物リスト(the Statutory List of Buildings of Special Architectural or Historic Interest)に載っているので、以前にも書きましたが、役所の保存担当者に許可が必要かお伺いをたてる必要があります。連絡してみると、「ただの修理か、見かけも素材も全く同じものに差し替えるのであれば、許可を得る必要がない」とのことでした。
基本的に、もともとこの建物についてるのは「上げ下げ窓」です。これは英語では「サッシ窓(sash
window)」と呼びます。日本でいうサッシは、窓枠を用いた建具のことを指しますから、それとは違いもっと特定のものを指します。
©モリスの城 |
どの時点にさかのぼる?
©モリスの城 |
この建物を治してくれる修理業者は、古い上げ下げ窓の修理に特化しており、300年ぐらい前に建てられたケンブリッジ大学の建物や教会、 お屋敷なども扱っていますが、こう言っていました。
「例えばリストに載る前に1つの窓が、新しいスタイルに変えられていたとしたら、理屈で言えば、その窓は他の古い窓に合わせて直されるべきだ。でも、リストに載った時点が基点になっているので、それに合わせないといけないというのが、ほとんどの保存担当者の意見なんだ。まあ、たま〜にいい保存担当員がいて、あるお屋敷の修復をやった時に、一緒に史料を調べてくれて、無事古い窓に合わせて変える許可を得たことがあったけど、それは稀だね」
建築的歴史的重要建造物リストの歴史
では、基点になる建築的歴史的重要建造物リストはいつできたのでしょう?
ちょっと前になりますが、古建築物保存協会(SPAB:
Society for Protection of Ancient Buildings)の会長を28年務め、長年建造物の保護に携わってきたPhilip
Venning 氏の講演があり、そこで氏が説明してくれました。SPABは1877年に「モダンデザインの父」とも称されるウィリアム・モリス(William
Morris)によって設立された組織です。
「より良いものに変える」修復
長年放置され、荒れ放題になっていた教会の修復が行われる様になったのは、1770年代からです。その頃流行していたクラシックスタイルは、その基になった古代ギリシャ・ローマがキリスト教でなかった為、それよりも中世のゴシック建築の方が純キリスト教スタイルだとして好まれました。
当時は「修復」と言っても、「傷んだ所を元通りにする」というよりは、「より良いものに変える」という考えが主流でした。ゴシックスタイルの教会であっても、「より良いゴシックスタイルに変える」様「修復」されました。
当時の建築家はクラシックスタイルに傾倒しており、クラシックスタイルではバランスや対称が非常に重要だと考えられていました。その為もともとの教会の構造を無視し、バランスのとれた建物にしようとしたのです。
ただし、デザインの他にも理由がありました。カトリック時代に建てられた教会は、イギリスが取り入れたプロテスタントの礼拝法に合う様に作り替えられる必要があったのです。
最初の建築家の意思を尊重
そのような風潮の中、ケンブリッジ大学やイーリー大聖堂、リンカーン大聖堂の修復にかかわったJames
Essex(1722〜84)は、最初に建てた建築家の意図にしたがって修復をするように心がけました。
©モリスの城 |
建築物保護の動き
19世紀も中盤に入ると、革新的な建築家を中心に、現存するものを取り壊して新しい物に「修復する」という考え方に疑問を持ち始めます。
1841年には、中世の専門家John
Brittonが教会、城、個人の家といった、国の重要建築物のリストを作り、彼の働きで、その修繕と保護に関して助言を与える調査委員会が設置されますが、一件レポートを制作しただけで、それは葬りさられてしまいます。それでもなるべく元のままの姿を残し、「修繕する」という考え方は、教会の修復を中心に徐々に広まっていきました。
1865年には、王立英国建築家協会(RIBA:
Royal Institute of British Architects)が建築物保護に関してのガイドラインを定めます。この中で、どんな建物も歴史的価値があるが、その真正性が破壊されてしまったらその価値を失ってしまう、その為事前の考古学的、歴史的調査が最も大切だとしています。
ウィリアム・モリスと建築物保護運動
ウィリアム・モリス自身が建物修復の抗議運動に最初にかかわったのは1874年です。ハムステッド教区教会の塔を、現存のジョージ朝スタイルからゴシックスタイルに建て直すというものでした。抗議運動のリーダーであったBasil
Champneysは、「町の景観に影響する塔は、ある意味公共のものであり、その為事前に地元住民に相談するべきである」としています。この抗議のお陰で、この「修復」は2年後に断念されました。
この成功をきっかけに、モリスは古建築物保存協会(SPAB:
Society for Protection of Ancient Buildings)を立ち上げました。最初のうちは、友人のみで運営していましたが、徐々に全国から修復抗議運動依頼がおしよせるようになり、組織的に大きくなって行きます。
その対象は中世の教会が主でしたが、そのうちに一般建築の依頼も増え、19世紀末には手がけた総件数の10〜15%は、小さな一般建築や橋、農家の建物になりました。
SPABは、建築家だけでなく、実際に修復に関わる職人もきちんとした知識が必要だとし、1903年には古建築修理に関するハンドブックを出版しました。
法律化の動き
SPABの設立メンバーの一人John
Lubbock卿の働きで、1874年には古建築保護を法律化する為に、初めて国会で討論が行われました。「個人の所有物に口をだすな」とかなり反対がありましたが、1882年についにAncient
Monuments Act(遺跡法)ができました。しかし、これはまだストーンヘンジ等の遺跡に限られていました。
1890年に制定されたAncient
Monuments Protection Actでは、ancient monumentは住居を除く「建築的、歴史的に重要な建造物、建築物、遺跡」と定義しています。これにより初めて州義会に、その保護や維持、管理に関する権限が与えられます。
1913年には、The
Ancient Monuments Consolidation and Amendment Actが施行されます。ここではancient
monumentは、「特別に歴史的、建築的、伝統的、美術的、又は考古学的重要さにおいて、その保存が大切だと思われる建造物、もしくはそのような建造物の敷地、またはその遺跡」と定義しています。
国的に重要だと思われる建造物をリストアップし、そしてここで初めて、そのリストに載っている建造物の所有者は、改装など手を入れる場合には、許可をとらなければならなくなりました。ただしこれには一般住宅は含まれていませんでした。
1930年代から1940年代にかけて制定されたTown
and Country Planning Actのなかで、「特に建築的歴史的に重要な建物に関して、管理州議会の許可なしに取り壊してはいけない」とあります。しかし、実際それが守られていたかというと、かなりあやしかったようです。
空襲が建造物保護を促進
マンパワー
Mynors, Charles, 2006, Listed Buildings, Conservation Areas and Monuments (Sweet & Maxwell)
William Morris, 1996, Victoria and Albert Museum catalogue (Philip Wilson Publishers Limited)
Town and Country Planning Act 1932
http://www.legislation.gov.uk/ukpga/1932/48/enacted
UK Parliament website, Managing and Owning the Landscape, "Preserving Historic Sites and Buildings"
0 件のコメント:
コメントを投稿