すべての道はローマに通ず
Gough Map(左が北)1360 (public domain) |
なんとなくできた道
ローマ軍撤退後、18世紀までに作られた道路は幾つかの例外を除いて舗装されていません。定住地と定住地を結ぶ踏み固められてできた道は計画的に作られた訳ではなく、ローマ軍の道路のようにまっすぐではありません。
王族は道路のメインテナンスには関心がなく、それは地元の教会区の責任下におかれましたが、教会区も資金繰りに困っていた為に、道路にかけるお金が限られていました。年に6日は、無償で道路のメインテナンスをするよう義務付けられていましたが、昔は地元から移動する必要もなく、人々は、自分たちの生活に関係のない道路には興味を持っていませんでした。
舗装されていない道には穴が開き、馬にとっても人にとっても危険な状態になります。その上、雨の多いイギリスのこと。特に冬場には水たまりができて、何ヶ月も通れなくなってしまうことも多々ありました。その為主要な道路は徐々に舗装されるようになります。
川でひろった小石
舗装に使われる小石のことを「cobblestone」と言いますが、その単語が最初に使われたのは1400〜1500年のようです。当時は労働者が川に入って丸くて安定した小石を拾い、それを砂の上に敷き詰めました。裕福な地域では石灰モルタルで固められることもありました。 ただ、雨に濡れると滑りやすいという欠点もありました。
©モリスの城 |
有料道路誕生!
17世紀になり、産業革命と共に国内貿易が盛んになり、大量の荷物が都市間を行き来するようになると、大型の荷馬車や4輪馬車の往来が激しくなって、道路のダメージが大きくなりました。
そのため、1663年に、最初のターンパイク・トラスト(turnpike trust)が作られました。ターンパイクとは有料道路のことで、通行人から料金を取り、それで道路を整備するというものです。これはある地域の地主やメーカー、商人らが嘆願書を持って議会に訴え、それがその地の法令として認められるという形をとりました。
1800年代初期までに、千のトラストがイングランドとウェールズを含め2万9千キロの道を管理するようになりました。
使用料と罰金
あるターンパイクの使用料は、車両のタイプ(四輪大型馬車、荷馬車、荷車)、何頭の馬が引いているか(1頭・2頭・4頭・6頭)、車輪サイズ(9インチ、6インチ、または6インチ以下)、そして家畜の種類によって決まっていたようです。
糞尿堆肥やその他の肥料を運ぶ農家、手紙を運ぶ郵便馬車、兵隊、選挙の日に投票に行く人、日曜日に教会に行く人、お葬式や病気の人のお見舞いに行く人は免除されました。
嘘をついて払わなかった人には罰金が科され、その人を通した土地の所有者にも同じく罰金が科されました。
スピード記録更新!
ターンパイク・トラストのお陰で、道路のメインテナンスが行われ、新しい道が作られ、物資の輸送が効果的に行われるようになりました。又人々の移動の時間が短縮されるようになりました。
カリフォルニア大学アーバイン校経済学部准教授のDan Bogartの計算によると、1750年から1800年の間に、平均移動スピードが時速2.6マイル(約4.2km)から6.2マイル(10km弱)に、1829年までには8マイル(13km弱)まで増えました。
マンチェスターからロンドンに行くのに、1700年には90時間かかっていたのが、1787年には24時間で行けるようになりました。
金持ちに都合のいいシステム
しかし、基本的にターンパイクは地主や工場主、商人など裕福な人によって運営されていたため、小作農家や下級労働者にしてみれば、金持ちに都合の良いひどいシステムでした。それまでただで通っていた道にお金を払わなければいけなくなり、得をするのは金持ちばかり。
1720年代から、ターンパイク反対の暴動が各地で起こりました。その中でも特に注目に値するのが、ウェールズ中西部で1839〜1843年に起こった「レベッカ暴動(Rebecca riot)」です。
女装暴動!
ターンパイクのおかげで、ウェールズの産業は栄えました。それまで水路に頼っていた運輸が、新しくできた道路のおかげで簡易になり、鉄鋼業や石炭産業が盛んになりました。一方で、トラストの間で腐敗が進み、道路使用料も高騰しました。
また、その道路の一部しか使わない農夫をも捕まえようと、道路の脇にもゲートが作られました。小規模の農家にとって、作物や家畜を市場に持って行ったり、土壌を保つのに必要なものを運ぶのに払わなければいけない道路使用料は、大きな負担でした。
それだけでなく、地主が強欲になり、小作農家はますます貧窮し、その経済的不満が増し、ターンパイクという象徴物が、都合のいいターゲットになったという感じでしょうか。
ついに爆発した農夫たちは、女性の衣服に身を包み、料金徴収ゲートを襲いました。彼らは自分たちを「レベッカとその娘たち」と呼びました。
これは、聖書の創世記24:60にある「彼らはリベカを祝福して彼女に言った、『妹よ、あなたは、ちよろずの人の母となれ。あなたの子孫はその敵の門を打ち取れ』」に由来しています。
1843年までウェールズ中西部各地で何度も起こった暴動により、その地域のトラストは新設された州の道路局にとって代わられ、道路使用料も減額されます。
The Welsh Rioters, Illustrated London News 1843 (public domain) |
有料道路撤廃!
このような暴動と、鉄道と運河の発達による道路収入の減少が原因で、1888年の法律によって、道路の責任が地方自治体に移されました。200年に及ぶ有料道路の歴史は幕を閉じ、人々は嬉々として料金徴収ゲートを取り壊しました。
渋滞税の導入
現在イギリスには全国で24箇所にしか有料道路はありません。うち21箇所は橋または川の下を通るトンネルで、その維持費の為に使われています。
他の2箇所はロンドンとダラム(Durham)のコンジェスチョン・チャージ(congestion charge: 渋滞税)です。これは渋滞緩和を目的に、特定のエリアに入った車両に課される税金で、2003年と2002年にそれぞれ導入されました。
無料の高速道路
有料の高速道路はイギリス全国で23か所しかなく、そのうち18は橋です。
ロンドンで学生だった時にベビーシッターをやっていたことがあり、雇用主さんがタクシーを呼んで下さりタクシーで帰った時のこと。北ロンドンから南ロンドンに行くのにタクシーが高速道路を通りました。東京の高速道路に慣れていた私は高速料がいくらかかるのかとヒヤヒヤでしたが、ただと聞いてびっくりしたものです。
21世紀に入ってから、環境問題や財政支出の縮小により、有料道路の導入が何度かアジェンダに上がってきています。将来的にまた導入されるかもしれません。
さて、19世紀になると、様々な舗装の方法が登場します。それは次回に見てみたいと思います。
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